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Naomi's Choice 小柳有美の歌った歌
by Eiji-Yokota
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五木の子守唄   part 1

- trad.(伝承歌)-
五木の子守唄   part 1_c0163399_0554211.jpg
 
熊本県民謡。
おそらく、日本で最も知られている子守唄/守り子唄の一つ。
哀感漂うメロディと歌詞が特徴。

日本三大子守唄、「労働歌」としての「守り子唄」等の位置づけ、背景等については「竹田の子守唄 TAKEDA」Part2の記事をご参照ください。

この歌の誕生経緯やその背景については様々な見解・説があります。
曰く;
平家落人説、防人の歌説、隠れ念仏(一向宗)の抜け参り説、韓国人隠れ村説、逆に朝鮮出兵に駆り出された農民が現地で歌った説、乞食の歌説、渡り山師の娘説、讃美歌との類似性の指摘…
歌の起源・発祥地についても、山鹿地方説・天草福連木との関連説…
歌詞、節回しも様々で、2拍子だけでなく、3拍子もあり、これが韓国・アリラン説の根拠の一つともなっています。

これらの真相探究・判定はとても私の手に負えるものではありません。
以下では、現在歌われている形になった経緯を唄の故郷を訪ね、代表的な歌詞を上記各説の根拠の紹介も兼ねて見ていき、併せて様々なヴァージョンの紹介(Part2)をしたいと思います。
(なお、文中の個人名の表記は大半の方が歴史的存在となっており敬称は略します)



【 五木村 唄が育まれた背景  】

起源や背景の真相はともかく、まずはこの歌が生まれ(前記のとおり異説あり)、育まれた場所から。

熊本県球磨郡五木村
熊本県の中南部、山間にある渓谷集落。
人吉市の北に位置し、平家の落人集落として有名な五家荘(八代市)は村の中央を走る川辺川(球磨川の支流)の上流(北)にあります。
面積252.94㎡。ほぼ熊本市と同規模ですが、その殆ど全てが山林に占められている。
人口は1387人/558世帯(平成21年5月31日現在) 詳細は村の公式HPで。
因みに、冒頭のイラストはそのHPで使用されているものです。
また、同サイト上で、地元で歌われている五木の子守唄(注1)と後記川辺川が流れる村の様子を動画で見聞き出来ます。
節回しが通常歌われているものと全く違うこと、下の句(7775形式の75部分)が繰り返される等の特徴に気づかれることでしょう。

五家荘同様、平家の落人が「居着いた」ことから「いつき」の名で呼ばれたとも言われていますが、逆に、五家荘への平家の落人定着に対し、鎌倉幕府が配下の東国武士(土肥、梶原、土屋、黒木、和田氏等)を五木村に送って、これを監視させたとも言う説も有力です。(松永伍一は「源氏にゆかりのある姓を用いることによって追手を逃れようとする偽装転向がなされている」と主張)
やがて、当地を含む人吉(球磨地方)を支配していた相良氏は戦国大名化します。関ヶ原の戦いでは東軍に寝返り、家康から所領を安堵され、以後、人吉藩として明治まで存続。
村では先の東国武士の子孫(?)が後に「三十三人衆」と呼ばれる地主(地頭)階層を形成し、村を支配。これら「旦那衆」に対し、「名子」(ナゴ)と呼ばれる貧しい小作人たちは田畑(焼畑農業が主体)、家屋敷、農具までも彼らから借りて生計を立てていたようです。
これらの名子の娘たちは10歳を過ぎると、口減らしも兼ね、子守奉公に出されます。
従来、五木村内の旦那・名子間でこの奉公が行われ、守り子もここで働いたと解されていましたが、明治中期にこの歌が肥後一円で歌われていた記録があり(注2)、遅くともその時期には、村を出て、山を下り、人吉の富裕な商家や豪農に出向く者がいたことは間違いなく、その地で他の村から集まった守り子同士の交流を通じて生まれ、育まれたと解する方が自然に思えます。
同村の「子別(こべつ)峠」は、外に奉公に出る子をここまで見送れたと言う「子別れ峠」に由来するといわれています。
後述するこの歌の「発掘・伝播」の経緯でも触れますが、後世につけられた「五木」のタイトルに拘泥する必要はないのです。

明治に入ると、力を蓄えた近隣(人吉等)の商人主導で、椎茸栽培、銅山の再開、山林開発が進みます。
これに伴い、山林業に通じた土佐や紀州の山師等の流入が始まり(それは前記の「旦那・名子体制」の崩壊・亀裂を意味した)、明治初期の戸数400余りが昭和35年には1290迄増加します。
この間一貫して農業従事者より林業従事者数が上回っています。

この村はまた戦後、所謂「川辺川ダム計画」に翻弄されたことでも知られています。最終的には計画は受け入れられ、水没予定地の居住者や施設の大半は移転しましたが、再び、昨近、ダム計画見直しの事態となっています。(注3)

村のサイトや各種統計等見る限り、近年の人口の減少や年齢別人口ピラミッドが50~60代を頂点としていることから、過疎・老齢化の進行が裏付けられます。ダム問題は勿論その主因でしょう。

【 歌詞  守り子の心象風景 】

現在、約70の歌詞が確認されています。

これらの蒐集は上村てる緒(「挽歌・五木の子守唄」 エコセン 73年)による先駆がありますが、既に絶版です。(注4)
現時点では、熊本県立人吉高校五木分校の学生さん達による地元での聞き取り調査の結果が、熊本国府高校の公式サイトに掲示されており、容易に閲覧可能です→熊本国府高等学校・五木の子守唄の歌詞2
一部異同や微妙な違いはありますが、概ね上村の調査と一致します。

各歌詞とも字数7775の甚句形式で、竹田の子守唄、正調博多節等とも共通するものです。

実際に70の歌詞全部を歌う伝承者はいません。また、採り上げる歌詞も各人で異なり、更に歌詞の内容・表現も各で微妙に異なっています。
詳細は上記サイトでご確認いただくとして、ここでは、独断と偏見で、比較的よく歌われ、流布していると思われる歌詞及び歌の背景を読み解く上でキーとなりそうなものをピックアップしました。(下の句の繰り返しは省略)
以下、解説の便宜上歌詞の前に数字を振っていますが、実際には、どれが1番、2番と言う決めはありません。
では、方言や歌の意味について若干の注釈を試み、守り子達の心象風景に近づいてみましょう。

1♫ おどま盆ぎり盆ぎり
   盆から先ゃおらんど
    盆が早よ来りゃ早よもどる

おどま:一人称(複数を指す場合もある)
盆ぎり(「盆きっ」とも):盆まで 
この最も有名な歌詞さえ、定説はなく、様々な見解が出されています。
長くなりますので、下の(注5)で。

2♫ おどまくゎんじんくゎんじん
    あん人(しと)たちゃよか衆(し)
    よか衆ゃよか帯よか着物(きもん)

くゎんじん/かんじん:勧進
本来は寺院・仏像の新造・修理を意味したが、やがてその為の「寄進」を指すようになる。
転じてここでは「物乞い」の意味になり、自分達を卑下した言葉と解されている。

「非人」を充てる見解もあり、被差別部落説等で採用されている。
「韓人」を充てる見解もあり、韓国説の根拠ともなっています。

よかし:旦那衆、先の「三十三人衆」やその子孫、ひいては富裕な階層を指す。
しかし、それに限定する必要もないと思われます。
要は、貧しい自分たちと豊かな支配階級の対比を浮き彫りにしているのでしょう。

高群逸枝(「女性の歴史」注2参照)はこう記しています。
熊本地方ではくゎんじんとバカ(注:実際に「バカ」と歌われている歌詞もある)が、ののしりことばの極到とされた。この二つが人間の最下層とされた。この歌には、この最下層を自認する一群の子守娘たちが、他のそうでない階層に対立して、戦闘開始を宣言している姿が見られる。

もっとも、聖なる遊行者、勧進聖の晴れ姿と言う異説も。

3♫ おどまくゎんじんくゎんじん
    ぐゎんがら打ってさるこ 
   チョカで ままちゃち ろ(ど)でとまる

ぐゎんがら/ガンガラ:ブリキの缶
さるこ:歩こう
ちょか:急須・ヤカン状の鍋
ままちゃち:飯を炊いて
ろ/ど:(寺の)堂、あるいは楼

これは一連の歌詞の中でも極めて異色な部類に属します。
出だしこそ、2の唄と同じですが、それ以後は全く別世界です。
2の「よかし」の世界と対比させて、「おどま」の世界を描いていると見れますが、守り子が実際に堂に泊って、がんがらで食していたとは思えません。
私は、同じ「ナガレモン」の身として、先の勧進聖に対するシンパシーを歌ったものと解しています。
勧進聖は、高野聖に代表されるように、各地を巡り、納骨供養を勧め寄進を募っていましたが、この時点では単なる流れ者であり、物乞いと実態は変わらなかったようです。
あるいは、彼らが歌っていた唄を守り子達が自分たちのレパートリーに加えたのでしょうか?
いずれにせよ、違和感のある歌詞です。

4♫ おどんがうっ死(ち)んだちゅて
    だいがにゃあてくりゅきゃ
    裏の松山蝉が鳴く

だいがにゃあてくりゅきゃ: 誰が泣いてくれるだろうか、誰も泣いてくれない

4以下7までの4作は個人的には一連の歌詞の中でも守り子の心象風景の極北を描いたものとして、また、文学作品としても「白眉」と高く評価するものです。なによりも強い感動を覚えました。

孤独な守り子の死---
別地方の類歌に「山のカラス」や「両親」が鳴くものがありますが、土地柄が歌詞に出ただけかも知れませんが、蝉の方がより寂しさが募るように感じるのは私だけでしょうか?

5♫ 蝉じゃござらぬ
    妹(いもと)でござる
    妹泣くなよ 気にかかる

4を受けての唄と思われます。
ここで言う妹は必ずしも血縁とは限りません。守り子達は同じ境遇で身を寄せ合って生きていました。
仲の良いもの同士「お前ゃ姉さま わしゃいもつ」と歌い合っている歌詞もあります。

6♫  おどんが死んだなら
   道端(みちばち)ゃいけろ
    ひとの通るごち 花あげる

なんと言う、寂しく哀しい歌詞でしょうか…
「死んだなら」は「うっ死(ち)んだちゅて」と、
「道端」は「おかんばたゃ」と歌われることもあります。

例えば、松永伍一(「日本の子守唄」紀伊国屋書店 64年)はこう断じています。
「五木の娘たちは、はじめから流浪の果ての野垂れ死を運命づけられていた。」

たしかに、3でも触れましたが、いくつかの歌詞に「ナガレモン/流れ者」のイメージが見え隠れしているのは間違いないとも思います。しかし、だからと言ってここまで解する必要もないのではないか、と思います。
自らの置かれた環境・不幸を嘆き、それで大袈裟に、あるいはやや自暴自棄に表現してみた、のではないか、と。(結果として、それが現実になることもあったでしょうが)

7♫ 花は何の花(*)
    つんつんつばき
    水は天から もらい水

(*)「菜の花」の字を充てる解釈も。
個人的な思い出で恐縮ですが、まだ若かった頃、単独のこの歌詞に触れた時(勿論「菜の花」と聞こえました)、優しい素朴な田園の春の光景が浮かんできました。
そしてすっかりお気に入りになりました。
しかし、長ずるに従い、6の歌詞を知り、二つが対になっている可能性が高いと知った時に慄然としました。
今でもはっきりと覚えています。

「私が死んだら道端にでも埋めてくれ、
通る人ごとに花を手向けてくれるだろう」
と一人の娘が歌えば、次の娘が
「花は何の花がいい?」と訊いてきます。
「椿がいいよね」とまた誰かが繋ぎます。
椿が五木村の花になっているのはこの歌によるものでしょうが(冒頭のイラストでも鮮やかに描かれています)、その赤さ(ここはやはり赤でなくてはいけない!)は目に強烈です。
「花に水はいらない、どうせ天から降ってくるから」
と繋いだのは、果たして、最初の娘か別の娘か?

五木の子守唄   part 1_c0163399_19333443.jpgなお、「つばき」を「茅花 ツバナ」と解する説もあります。
「茅花」とはチガヤ(茅・茅萱)の花、チガヤはイネ科の多年草で白い穂を出します。
かつては陽当たりの良い空き地の至るところに自生していた所謂雑草です。
墓を飾るのはどこにでも茂っている雑草となると、更に悲惨な感じが強まります。

いずれにせよ、達観と言っても良い、守り子達のこの壮絶な死生観と絶望的な境遇…
こうした解釈を踏まえた瞬間、単なる素朴な道端の光景を唄うかの如き歌詞の持つ意味は一転し、私はこの唄を「守り子唄の極北」だと思ったのでした。

8♫ おどまいやいや
    泣く子のもりは
    泣くといわれて憎まれる

別に次のような前口上付きの同じ歌詞の存在も指摘されています。

♫ おろろん おろろん おろろんばい
  おろろん おろろん ぱーのぱご
  おどまいやいや 泣く子のもりは
  泣くといわれて憎まれる
 
「ぱーのぱご」の意味は不明ですが、「婆の孫」(ばばのまご)説もある。
これらが先の山鹿説・天草福連木説へと繋がります。

このあたりの各地の子守唄、特に比較・検証に興味がある方は、NPO法人日本子守唄協会のHPが役に立ちます。

9♫ 子どん可愛いけりゃ
    守りに餅くわせ 
    守りがこくれば 子もこくる

守り子達は子守の辛さを唄うことで慰め、またうさ晴らしをしていたのでしょう。
時には8のような嘆き、時には9のような開き直りや恫喝にも近い憤りを。
他にも秘かな憎しみや殺意、陰湿な仕返し、また怒りを明からさまにしたもの、主人一家を皮肉ったものも見られます。
実際には言えないことも仲間内で歌うことで生き抜くよすがとしたのでしょう。
ここではスペースの制約があり、全ては紹介出来ませんが、やはり、彼女達が一番多く歌っているのは、日々の子守作業や周囲との関係です。

10♫ おどんが お父っぁんな 
     山から山へ 
    里の祭にゃ 縁がない

繰り返しになりますが、五木の子守唄には流浪の影が見え隠れしています。
この歌詞の存在が、渡り山師の娘説の根拠の一つともなっています。
それは旧来の「旦那・名子」の対立にのみ限定していた、この唄の解釈に風穴をあけるものでもありました。
しかし、だからと言って、全ての歌が山師の娘が歌ったと限定する必要はないと私は思っています。

11♫ 話しゃやめにして
    やすもじゃないか 
    おごけしまいやれ 寝て話そ

おごけ:麻の苧をこぐ桶

年季奉公の終わりが、盆か正月か、はたまた急にクビになるかは別として、守り子たちも15歳にもなれば、卒業です。
実家に帰って家の手伝いや通常の労働に従事するか、はたまた、運が良ければ、どこかに嫁にいくか。
しかし、中には、野たれ死にが待っている娘の存在も否定出来ません。(明日は山超えどこまでゆこか)

この歌は、成長して大人の入口に立った彼女達が作業小屋の片隅での一時の逢瀬を歌ったと解されます。
そう思って読めば、結構エロチックですよね。
語りかけているのは村の若衆でしょうか、娘自身でしょうか。
娘達の切ない胸の鼓動までも伝わってくる様です。

【 歌の原風景から伝播そして発掘・全国ブランドへの道のり 】

この歌は明治後期まで肥後一円で守り子によって歌われていたようです。
時に一人で、時に集団で。(注6)
掛け合いも当然あったでしょう。
単純に子守の辛さやわが身の不幸を嘆くだけでなく、やけになったり、悪態ついたり、即興的にユーモアで切り返したり、様々なシーンがあったことが容易に想像されます。
特に先の歌詞の中では4から7迄などが、いかにも掛け合いの中から生まれてきたかのようですね。
様々な地方から出てきた守り子達によって、集団的に各地で生み出された歌は、更に彼女達が帰る故郷でも、それぞれに歌い継がれ、独自に発展していったのでしょう。
(注2)(注6)

しかし昭和初期には地元ではすたれ、僅かに人吉地方で一部の人々によって唄い伝えられてきたようです。
(注7)

さて、この歌を最初(1930年)に採譜・発表したのは人吉市の小学校教師、田辺隆太郎とされています。
彼は「五木地方の子守唄」と「五木四浦地方の子守唄」の2種を採譜。前者が2拍子、後者が3拍子(但し、途中で2拍子部分がある)。そして、現在流布している旋律は後者のものによく似ています。
尤も、現在流布している歌謡曲調の旋律の大半は2拍子で演奏されており、現在人吉地区で歌われているとされる旋律と略同一です。一方、後記CD等で確認出来る各地の伝承者の様々な歌唱の中には、2拍子と3拍子が入り混じっているものも存在しています。(もともと、西洋音楽の概念と用法で日本の民謡を書きとめること自体に限界があると思っていますが…)
四浦(ようら)は五木村の直ぐ南に位置し、人吉市と五木村の間にある相良村の北端に位置します。
既に申し上げた通り、この歌の発祥は五木が先か四浦か、はたまた人吉か、それとも福連木が先か、決着は付いていません。

1948年に人吉を訪れた、「下駄屋の姉御上がり」の民謡歌手音丸(1906 - 1976 大正・昭和期の歌手 本名:永井満津子)が、この歌を見出し、初レコーディング。この時はヒットしませんでしたが、彼女はステージで歌い続けます。やがて、お座敷唄として次第に広がっていきます。
現在残された音源で確認する限りでは、彼女は通常慣れ親しまれている旋律で歌っています。
一般には、1951年、古関裕而(1909 - 1989 昭和期の作曲家 本名:古關 勇治)によるハモンド・オルガン編曲ヴァージョンがNHK熊本放送の「お休みの前に」の音楽として繰り返し放送され、人気化したと言われています。
そして1953年に、照菊(1924 - 1988 昭和期の歌手 本名:飛田静江)のヴァージョンが大ヒットし、一躍全国区となりました。

より哀感を誘う人吉地区の調べが大半の日本人の心を捉えたのでしょう。
人吉市は最初から歌い続けてきた音丸に感謝状を贈ります。
一方で、五木地区に伝わる旋律が大々的に録音、喧伝されることは当時はありませんでした。


Part2 では、各種カヴァーや参考図書を紹介。


注1) HPでの詠唱
HP上に正式なクレジットはありませんが、節回しとお姿から、堂坂よし子さんとお見受けしました。

注2) 高群逸枝の証言
この歌は五木のみならず、肥後一円で歌われた。私は熊本南部の水田地帯に育ったが、10、20人とうち群れて、肥後の大平野をあかあかと染めている夕焼けのなかで、この歌を声高く合唱する子守たちのなかに私もよくまじっていた。ただし、歌詞は、平地から山地に入るにしたがって深刻となり、球磨の五木へんで絶頂にたっしていたとおもう。そのわけは、後にいうように、そのへんが子守たちの大量給源地であったからだろう。
(「女性の歴史」第3章 51年 引用は講談社文庫版によった)

注3) 川辺川ダム計画
計画から40年余、長期化したダム事業の代表格として知られています。
1966(昭和41)年、建設省(現「国土交通省」)より発表された多目的ダム計画。
現在は附帯工事は実施されていますが、ダム本体工事はまだ全く未着手状態です。
計画によれば、五木村の半数近くの403戸、528世帯が水没。
計画の発表により、村と村議会は直ちに反対を表明。建設省関係者の立ち入り自体も拒絶。
村はやがて分裂状態となり、水没住民の大半は離村、残りは和解に応じます。
一方で、公共事業そのものの見直し、また計画の妥当性に疑問が呈され、人吉市・八代市・相良村等のダム反対の市民運動が勢い付きます。
ダムの利水計画反対農民による訴訟は、2003年5月、福岡高裁が原告勝訴の判決を下し、国(農水省)は上告断念。
05年熊本県収容委員会、漁業権収容申請の取り下げを勧告。国土交通省は収容を断念。
08年9月蒲島熊本県知事、「ダムによらない治水の為の検討を極限まで追求すべき」と発言。
09年民主党政権により八ツ場ダムと共に建設中止を明言。
計画の大半の根拠も合理性も失った現時点においては、「住民の苦渋の選択」を根拠に、五木村は「ダムありき」の考えからダム推進の立場。

「水は天からもらい水」と唄った守り子達の里で、「もらい水」を管理・活用しようと言う壮大な目論見(それ自体は人間の叡智の集積化も知れませんが)とそれを巡る一連の動きを、守り子達は道端の陰でどう見ているのでしょうか?

注4) 田辺・上村の仕事
五木の子守唄   part 1_c0163399_22243978.jpg
上村てる緒が採取した歌詞の一部及び近隣各地の歌詞と田辺隆太郎の2つの採譜は、今日では次に収録され、容易にチェック出来ます。
日本わらべ歌全集 (25) 熊本宮崎のわらべ歌」(柳原出版 72年)





注5) 年季明けと藪入り
守り子は1年乃至2年の年季奉公だったようです。
従来、この歌詞は、「盆」を年季明け=自由の身になる時期=と捉え「盆が早く来てくれれば、解放されて実家に早く帰れるのに」と言う解釈が主流でしたが、当地区に限らず、一般に年季明けは、年末近くが多いと指摘されています。(それに対する反論もあるようです)

この為、他の地区から来た唄が混じった結果ではないか、と言う考察もあります。
一方で、自分達の習慣と違うものを、守り子達が歌い続けるものだろうか、と言う疑問も呈されています。
また、この唄は球磨の隠れ門徒による「抜け参り」を唄ったとの解釈も提示されています。

私は、従来から、「おらんど」の解釈を、ここから(永久に)立ち去ることに限定する必要はなく、ただ(一時的に)不在になると解しても良いのではないかと思っていました。そもそも、いくら年季奉公といえど、他に仕事がなければ、継続・延長も当然あるでしょうし、むしろ、単純に「藪入り」(盆休み)を待ちわびる気持を歌ったものではないか、と。
そして、盆が終われば、また、あの辛い生活に戻らねばならなくなる、と。
つまり「守り子」が「故郷」に戻るのではなく、「盆」そのものが戻る(終わる)または、守り子が「職場」に戻る、と。
切実さは異なりますが、現代人の我々でも、Week dayは土日を待ちわびるものの、やがて来る日曜日の夜は憂鬱ですよね。「日曜がはよ来りゃはよ戻る」です。
これに通じるものでないか、と。
「竹田の子守唄」の「守りも嫌がる盆から先にゃ」(雪が降って寒いから)と一脈通じている歌詞だと理解していました。

ただ、八代市で採取された類唄に、「おどま盆ぎり盆ぎり せめてな今年の師走まで」とあるのを見て、やはり年季明けの唄かな、と思い直したりしたのですが、現在では再び上記の考えに戻っています。
70を超える唄を全て一つの考えや理屈で解釈すること自体無理と言うか、実態から乖離するのではないか、
まして別地区となれば、同じ歌詞や言葉が別の意味を持つこともある筈だ、と。

注6) 子守仕事と夕方の掛け合い
五木の子守唄   part 1_c0163399_2251699.gif
子守に明け暮れた一日の終わりも近く、疲れ切った守り子たちの背中では、母の乳を欲しがる赤ん坊の泣き声がひときわ高くなる。守り子の背はおしっこでぐっしょり濡れている。赤ん坊の体の重みが、遠慮なく肩に食い込んでくる。子守のつらさが凝縮するようにのし掛かってくる時間、それが夕方だった。
(赤坂憲雄「子守り唄の誕生 (講談社学術文庫)」 講談社 94年 右は現在入手可能な06年版)

これが、先の高群が描写した守り子集団の合唱の背景でしょう。

注7) 上村占魚の証言
人吉出身で高浜虚子に師事した俳人、上村占魚 (1920 - 1996) の随筆「五木の子守唄と私」(「愚の一念」1965年 笛発行所 所収) には次の様な既述があります。

昭和4、5年、家には五木在から子守、女中が来ていたが、彼女達の歌は耳にしたことはない。家兄がうたうのはききおぼえた。

この中で彼は昭和15年頃北原白秋に人吉ヴァージョンと五木ヴァージョンを唄って聞かせたことも披露しています。白秋は色々なところで、この唄を高く評価していますが、これがそのきっかけだったのでしょうか。

東京のどまんなかで五木の子守唄を唄いはじめたのは私かも知れんといふ気がしないでもない。
by Eiji-Yokota | 2009-05-29 21:02 | SONG
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