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Naomi's Choice 小柳有美の歌った歌
by Eiji-Yokota
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Song Of The Birds / El Cant dels Ocells 「鳥の歌」

- trad(伝承歌) -
Song Of The Birds / El Cant dels Ocells  「鳥の歌」_c0163399_2053884.jpg


世界的なチェリストであるパブロ・カザルス(1876-1973 音楽家 詳細は"WHO'S WHO"参照)の演奏で有名になった彼の故郷カタルーニャの民謡。
特に彼が94歳(1971年)の時に国連で行った演奏により「平和の歌」として強烈な印象を世界に与えました。
日本では讃美歌「新聖歌」に94番(訳詞:奥山正夫)として収録。

有美さんはこれに独自の歌詞を付けて歌っています→My Poem(ここをクリック)

今回は、カザルスがこの歌に込めた「思い」を、この歌自体の物語とカザルスの半生、そして故郷カタルーニャ地方の歴史を通じて見てゆきたいと思います。



1.クリスマス・キャロル

この歌は鳥達がキリストの誕生を祝うと言う内容の「クリスマス・キャロル」です。

(クリスマス・ソングやクリスマス・キャロルについての定義等は“We Wish A Merry Christmas”参照)

原詩の大意
♪  至上の夜に気高き光が大地をあまねく照らす
  鳥達は集まり、甘美な声で祝い歌を歌う。
  鳥達は歌う 「イエスが生まれ、我らは罪から救われ、喜びを与えられる」

カザルス:
私は、カタルーニャの古い祝歌「鳥の歌」のメロディでコンサートをしめくくることとしています。その歌詞はキリスト降誕をうたっています。生命と人間に対する敬虔な思いに満ちた、実に美しい言葉で、生命をこよなく気高く表現しています。このカタルーニャの祝歌のなかで、みどりごを歌い迎えるのは鷹、雀、小夜啼鳥、そして小さなミソサザイです。鳥たちはみどりごを、甘い香りで大地をよろこばせる一輪の花にたとえて歌います。
(J.ウェッバー編、池田香代子訳「パブロ・カザルス 鳥の歌」)
Song Of The Birds / El Cant dels Ocells  「鳥の歌」_c0163399_12394696.jpg
右画像は、この曲をクリスマス・キャロルとして採り上げたアルバム、ソプラノ歌手鮫島有美子さんの「きよしこの夜」(コロンビア 88年)。
鮫島さんはこの曲をカタルーニャ語で歌っています。
他に"O Holy Night「さやかに星はきらめき」"(フランス語)、タイトル・ソング(日本語とドイツ語)も。

しかし、このメロディは詩の内容と比べ、メランコリー過ぎるとは思いませんか?
あるいはメロディが先にあって、後にキリスト教が入ってきてから、歌詞が付けられたのでしょうか?
いずれにせよ、本来、救世主の誕生を喜び、祝う内容の筈のこの曲が、一抹の「悲しみ」や「切々たる祈り」を湛えていると感じるのは私だけでしょうか。
あるいはそれ故に、カザルスはこの曲に自分の思いを託したのかも知れません。

2.カタルーニャ : 幻の「人民のオリンピック」そしてスペイン内戦

ここでどうしても、この歌を生んだカタルーニャについて、触れない訳にはいきません。

カザルス:
この歳になるまで いくつもの国を訪れ、たくさんの美しい土地に出会った。でも私の心に刻まれたもっとも純粋に美しいところはカタルーニャだ。目を閉じれば、サン・サルバドルの海岸沿いの海が浮かぶ。小さな釣り船が浜に引き上げられているソトゥゲの小さな町。牛や馬、ぶどう畑、オリーヴの林を点々と散りばめたタラゴナ地方、リョブレガード川の土手、モンシェラトの頂。カタルーニャは私の生まれ故郷だ。カタルーニャは母のように慕わしい・・・」(上記「パブロ・カザルス 鳥の歌」)

カタルーニャ(Catalunya〔カタルーニャ語〕、Cataluña〔スペイン語〕 / 「カタロニア」 Cataloniaは英語表記)は、スペインの自治州。州都はBarcelona バルセロナ。  
なお、この記事での表記はすべて「カタルーニャ」で統一、リリース済みの著作物のタイトル名を除き、引用文も当該個所は修正しています。
Song Of The Birds / El Cant dels Ocells  「鳥の歌」_c0163399_0175532.jpg
スペイン北東部、ピレネー山脈の南に位置し、関東地方程の広さの三角形の地域。
東は地中海に面し、北はピレネー山脈でアンドラとフランス(ミディ=ピレネー地域圏、ラングドック=ルシヨン地域圏)に接す。スペイン国内ではバレンシア州とアラゴン州に接す。
古代から様々な民族がこの地を治め、また侵略。中世になると、フランク王国(フランス)のムーア人に対する防壁的位置づけを与えられ、次第に自治を獲得。やがて、カタルーニャ君主国(公国)が成立。一方で、隣国のカスティーリャが勢力を増し、スペイン帝国に発展、カタルーニャは終始同国に圧倒されていました。スペイン継承戦争ではフェリーペ5世に対抗してハプスブルク家のカール大公を担いだカタルーニャは敗退。自治権も失い、カタラン(カタルーニャ語)も禁じられます。
その後も何度か、カタルーニャ復興の動きはありますが、いずれも長続きしませんでした。
19世紀から20世紀にかけ、フランスのアール・ヌーボの動きに刺激され、カタルーニャ文化の復活が叫ばれ、モデルニスモと呼ばれる芸術運動がおこります。サグラダ・ファミリア聖堂で有名な建築家、ガウディはこの時代の人です。

当時のスペインの政情は不安定でした。
政権交代、クーデターが相次いでいましたが、一応、国民の投票による第2共和政が成立していましたし、カタルーニャも一定の自治を獲得していました。
筋金入りのカタルーニャ分離主義者且つ共和主義者だったカザルスは、当時カタルーニャ自治政府(ジェネラリタ)の要請でフンタ・デ・ムジカ(音楽評議会:芸術と教育に関する補助金の用途の決定権をもっていた)の会長に就任していました。
Song Of The Birds / El Cant dels Ocells  「鳥の歌」_c0163399_3281729.jpg
1936年 バルセロナはオリンピックの開催地をベルリンと争い、ヒトラーの強力な政治的圧力の前に敗れました。しかし、8月1日から開催されるベルリン・オリンピックはナチ政権によるプロパガンダ色の濃い「人種差別に満ち、五輪の理念には不適」と批判して、これに対抗する形で7月19日から「人民(民衆)のオリンピック」(オリンピアーダ・ポピューラル People's Olympiad)を開催すべく準備が進められていました。(参加者増で日程を拡大。右画像参照)
一説には参加予定23か国、2000人に及んだそうです。(6000人説も)
カザルスが指揮するパウ・カザルス管弦楽団は開会式である「世界平和の為の祭典」で、ベートーヴェンの交響曲第9番を演奏することになっていました。

7月17日 植民地モロッコでエミリオ・モラ・ビダル将軍が反乱を起こします。これに参謀総長を解任されてカナリア諸島に左遷されていたフランシス・フランコ将軍(1892 - 1975 軍人、政治家)が呼応。
「スペイン内戦」(注)の勃発です。
注)Guerra Civil Española (Spanish Civil War) スペイン「市民戦争」、「内乱」等複数の呼称がありますが、ここでは「内戦」で統一。
Song Of The Birds / El Cant dels Ocells  「鳥の歌」_c0163399_22422349.jpg
7月18日 開会式を前日に控え、カザルス達はバルセロナで最後のリハーサルを行っていました。
第3楽章が終了し、グラシア合唱団が舞台へ上がった時、カザルスのもとへカタルーニャ文化大臣から軍の反乱情報とリハーサルの中止を勧告するメモが届きました。
カザルスはメモを読み上げ、演奏家と合唱団に、今すぐ帰りたいか、それとも最後までリハーサルを続けたいか、と尋ねます。
なんと、全員がリハーサルの続行を望みました。
この機会を失えば、今後いつ演奏できるか分らない、せめて最後まで第9を演奏してから別れたい…
おそらく、全員の胸にその想いが去来したことでしょう。
「全ての人間は契りを交わした兄弟なり」
カタルーニャ語による感動的なシラーの詩がホールいっぱいに響き渡ります。
「私は涙で譜面が見えなかった」(アルバート・カーン「喜びと悲しみ」)と彼は後年語っています。

「いつの日か」
彼はメンバにー告げます。
「交響曲第9番を演奏しましょう。再び平和が訪れたその時に」
メンバーはこの誓いを胸にバリケードが組まれつつある市街地をそれぞれの家路に急ぎました。

しかし、この誓いは果されることはありませんでした。
「人民のオリンピック」も中止に追い込まれました。
その後カザルスとパウ・カザルス管弦楽団は凶弾に倒れた人々の為の慈善コンサートを数回行って活動を停止します。

カタルーニャは当時スペインの政権を握っていた第二共和国政府=人民戦線側に付いて反乱軍と交戦。激しい戦闘がスペイン各地で繰り広げられました。

ピカソのゲルニカ(上画像)、ヘミングウェイの「誰が為に鐘は鳴る」、ジョージ・オーウェルの「カタロニア讃歌」、そして今なお「報道写真の最高傑作」と言われるロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」(下画像)等は、この戦争に関するものとして有名ですね。
(PS:この写真について写真家の沢木耕太郎さんの考察→キャパの十字架 (2013年 文藝春秋) 同年2月3日のNHKスペシャルでも放送)
Song Of The Birds / El Cant dels Ocells  「鳥の歌」_c0163399_655298.jpg

反乱を始めたモラが本土・政府攻略に手間取っている間、フランコはトレドを陥落させて評価を高め、反乱軍の総司令官兼元首に選出されます。(因みにモラは翌年6月謎の事故死をとげます)
戦況は次第に反乱軍に有利に進みます。
ドイツ、イタリアが公然と反乱軍を支持する中、米英仏は「不干渉」を決め込みます。

38年10月19日 カザルスと彼の管弦楽団の最後の演奏会。
リハーサル中のエピソード。
リハ中、空襲を受け、メンバーは一斉に避難。しかし、カザルスは一人ステージでバッハの組曲の演奏を継続。やがてメンバーも一人二人定位置に戻り、リハーサルは続行されました。
その日のコンサート本番で彼はラジオに向かって世界に訴えるメッセージを読み上げます。
「もし、スペイン国内でヒットラーが勝利することを許してしまえば、次には貴方達が彼の狂気の犠牲になるだろう」

38年12月23日 フランコは30万の軍勢でカタルーニャを攻撃。
39年1月26日 バルセルナ陥落と共に、カザルスもフランスへ亡命。
「自由な政府ができるまで、祖国には帰らない」と言い残して。
39年3月 フランコ、首都マドリードへ向け進撃開始。
39年4月1日 フランコ、勝利宣言。

以後、カタルーニャは軍事独裁政権によって数十年に亘り徹底的に弾圧されるのです。


3.パブロ・カザルスの孤独な闘い ①
  ~スペイン内戦・第2次世界大戦そして演奏ボイコット

39年、カザルスは、カタルーニャの隣り村とも言うべきフランスのプラド Prades de Conflent に居を定めます。
避難してくる同朋の窮乏を見た彼は、一旦音楽活動を停止し、救援活動に注力します。
一方でこの年の9月1日ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し第2次世界大戦が始まります。
やがてフランスもナチス・ドイツに占領され、カザルスは自身も窮乏し、逮捕の恐怖に晒されますが、難民に対する拘りと故郷への想いからプラドに留まり続けます。この間ナチスからの演奏要請も当然断固拒否します。
彼のファシスト嫌いは徹底していました。「奇跡」とまで評されたアルフレッド・コルトー(P)、ジャック・ティヴォー(vln)との「カザルス三重奏団」が瓦解したのはナチスに対し親和的態度をとったコルトーをカザルスが非難した為と言われています。(後に二人は和解。しかし、既にティヴォーは亡くなっていました)
44年11月 ノルマンジーでの敗北を機にナチスがフランスから撤退すると、カザルスはまず地元から演奏活動を再開。彼が自ら編曲した「鳥の歌」をコンサートの締めくくりに演奏するようになったのはこの時からです。
ヨーロッパに平和が訪れた時、他の全ての演奏要請に目もくれず、カザルスはまっ先に英国に向います。
英国の民衆も諸手を挙げて、ヒットラーに屈しなかったこの人道主義者を迎えます。
当時のBOAC(英国航空)は航空運賃の受取を辞退し、税関はフリーパスでカザルスを通しました。
45年6月27日 ロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートは大成功、聴衆は歓呼で応えました。演奏後も興奮した一万二千人もの聴衆が彼を称え、「カザルス万歳」と惜しみない拍手を送り続けました。
そして、7月11日にBBC(英国放送協会)が、先日のコンサートをカタルーニャに向けて放送。マイクに向かったカザルスはここでも「鳥の歌」を演奏し、カタルーニャ語で曲を説明し、こう結びました。
「カタルーニャが再びカタルーニャとなる平和な時代が来ますように」

カザルスの英国に対する期待は大きく、ファシスト国側に勝利した連合国、特に英国がスペインからファシスト政権=フランコを放逐することを切望していました。
しかし、やがてそれは失望に変わります。
スペインは大戦中、中立を維持し、連合国にはこれを攻撃する意志はありませんでした。フランコはカザルスをあざ笑うかの如く健在を誇っていました。
カザルスは断固これに抗議し、46年11月には「スペインに自由と人民を尊重する政権が再建されない限り、チェロの演奏はしない」と宣言、演奏をボイコットしプラドに閉じ籠りを決め込むのです。

4.パブロ・カザルスの孤独な闘い ②
  ~ホワイトハウス・コンサートと国連コンサート Song Of The Birds / El Cant dels Ocells  「鳥の歌」_c0163399_11834100.jpg

ところが、この「プラドの隠者」のもとに、逆に演奏家と観客が集い始め、音楽祭が開催されることとなります。
彼も指揮や指導をしました。また、ただ一度の来日等を含め海外渡航にも若干の例外はありました…詳細はWHO'S WHOをご参照ください。
(右画像は50年代のプラド音楽祭における演奏集。「シューマン:チェロ協奏曲他」(SONY) 表題曲が素晴らしく、「鳥の歌」も収録)

58年 カザルスは、かねてからバッハを通じて親交があったアルベルト・シュバイツアーと共に米ソに向けて、核実験終結と軍備競争の中止を求める共同声明を発表。
58年10月24日 カザルス、「国連の日」にニューヨーク国連本部にて演奏。
71年の国連での演奏があまりに有名ですが、実はこれが彼の最初の国連での演奏です。
この時はバッハと「鳥の歌」を演奏。
当初、ダグ・ハマーショルド国連事務総長の依頼に、カザルスは「スペインを認めている米国内での、スペインが加盟している国連では」と演奏に難色を示していましたが、「マンハッタンのイーストリヴァー脇の国連ビルは治外法権で政治的に中立」と説得され、またその政治効果を十分認識してこれを受諾。
ここで彼は「平和を祈り、全ての町のオーケストラは同時に第九を演奏しよう」と提言。それは先の果たされなかった「誓い」に彼が生涯拘っていた証でした。
この時も全世界にTV中継され、「平和運動家」「老いたるスーパースター」と言うカザルスのイメージが定着していきます。この時カザルスは81歳。この年のノーベル平和賞の候補にもなりました。

60年12月17日 メキシコ、アカプルコ
カザルスのオラトリオ"El pesebre"(エル・ペセーブレ)「かいば桶」(まぐさ桶)初演。
これは、大戦中にカザルスがプラドで「善意の人々の住むこの地上に平和を」と言う願いを込めて作曲したものです。5歳の時に聖歌隊の一員として讃美歌を歌った時に目にした「かいば桶」が最も古い記憶であったカザルスは、キリストの降誕をテーマにしたファン・アラベドラの詩に接して直ちに作曲を開始。
カタルーニャのモンセラ修道院での初演を望んでいたカザルスでしたが、結局メキシコに楽譜を送ります。メキシコはスペイン内戦中、人民軍を支援した数少ない国で亡命した同朋が多かったからです。

61年11月13日(月) ホワイトハウス・コンサート
J.F.ケネディ大統領の招きで、カザルスは3度目のホワイトハウス・コンサートを行います。
(注:1898年 ウィリアム・マッキンリー、1904年 テオドル・ルーズベルト)
この時の演奏はNBCとABCによりTV中継され、CD(「鳥の歌-ホワイトハウス・コンサート」 冒頭画像 SONY)も発売されています。
ラストを飾るのは勿論「鳥の歌」で、カザルスの唸り声はすすり泣きのようにも聞こえます。
招待客はレオポルド・ストコフスキー、ユージン・オーマンディ、レナード・バーンスタイン等200人。

カザルスは、これ以前、ケネディの大統領就任(1961年1月)に伴い、ホワイトハウスに二度手紙を寄せ、アイゼンハワー前政権のとったスペイン支援政策(米軍基地がおかれた)を撤回するように求めていました。
ホワイトハウスでの演奏は明らかにカザルスのボイコット戦略と矛盾していましたが、様々な説得・駆け引き・論理構成(少なくとも料金をとった観客の為のチェロ演奏ではなかった)により、彼はケネディの招待を受諾し、コンサートを挟んで約1時間ほど私的会談を持ちました。
カザルスはこの若い大統領に「新しい理想主義」の芽生えを感じ、信頼と希望を託せる政治家として期待を寄せます。

しかし、ほぼ同時期にアメリカは南ベトナムにヘリコプター部隊と軍事顧問を派遣し、インドシナ半島での紛争を激化させます。また、ディーン・ラスク国務長官はこの1か月後フランコを称賛するコメントを発し、カザルスを落胆させます。

62年4月19日 カザルス、"El pesebre"をサンフランシスコで商業コンサートの形式で上演。
めげないスーパースターは、このオラトリオで世界中を「平和巡業」することにしたのです。
彼は自ら指揮台に立ち(チェロは弾かず)、以後、後記国連コンサートをを含め、数十回のコンサートを指揮します。

63年10月24日 カザルス、「国連の日」にニューヨーク国連本部にて2回目の演奏。
この時は、事務総長ウ・タントの招待によるもので、カザルスは"El pesebre"を指揮。

63年11月22日 ケネディ大統領暗殺
自分のイデオロギーを代弁する英雄にしようと考えていた人物が失われたショックは大きく、カザルスは体を壊し、深く憂鬱な気分に沈み、その冬は殆どプエルトリコを離れませんでした。結局、12月9日に予定されていた大統領自由勲章の授与式も欠席します。

その後も彼はプラドでの音楽祭、新しい妻マルタと暮すプエルトリコでの音楽祭、そして"El pesebre"の上演、はたまたバッハやベートーベン等の録音とマイペースながら、とても90代とは思えぬ精力的活動を継続します。

71年10月24日 カザルス、「国連の日」にニューヨーク国連本部にて3回目の演奏会。
国連平和賞が授与され、全世界へ映像が配信されました。

この日の為にカザルスはオーケストラと合唱のための「国際連合への賛歌」を作曲。
全てのプログラムが終ったのち、指揮台をおりたカザルスは、こう満員の聴衆に語りかけました。

「私はもう四十年も大衆を前にチェロを演奏していませんが、今日は演奏しなければなりません。
これから短いカタルーニャの民謡「鳥の歌」を弾きます。
私の故郷のカタルーニャでは、空を飛ぶ鳥たちは羽ばたきながら歌うのです。
平和(ピース)、平和(ピース)、平和(ピース)!と。
この曲はバッハやべートーヴェンや、すべての偉大な音楽家が愛したであろう音楽です。
この曲は、私の祖国カタルーニャの魂なのです」

カザルスはその後もイスラエルを含む各国を飛び回って健在ぶりを示し、永遠に生き続けるかと思われましたが、遂に心臓発作に襲われます。

73年10月22日(月) カザルス、プエルトリコで死去。96歳。

5. カザルスの死の後に ~フランコ後のスペインとカタルーニャ

遺族は故人の生前の主張(スペインが完全な民主主義を回復し、カタルーニャが自己統治できる自治領になるまでは亡命生活を続ける)を守り、彼の遺体をミイラ化し、一旦プエルトリコの記念墓地に埋葬し、その日を待つことにしました。

75年11月20日 フランコ死去。
75年11月22日 フアン・カルロス1世、フランコの遺言に従い国王に即位。
即位前にフランコの庇護の下で帝王学の教育を受けていたファン・カルロス1世は、しかしフランコの独裁政治を受け継がず、他のヨーロッパの立憲君主国を模範とした政治の民主化を推進。
77年6月 総選挙実施。
亡命中のジェネラリタの大統領ジョセ・タラデラスがカタルーニャ暫定自治政権運営を受諾。
78年 新憲法成立。スペイン、立憲君主制移行。
新憲法に基づくカタルーニャ自治憲章において、カタルーニャ語はカスティーリャ語とともにカタルーニャ自治州の公用語に。
79年3月 総選挙実施
79年10月 国民投票 カタルーニャの自治承認
未亡人マルタは、ここにおいて彼の遺体を故郷に埋葬する決断を下します。
79年11月10日 カザルス、エル・ベンドレ郊外の小さな墓地で家族の傍らに埋葬さる。
ようやく、彼は愛してやまなかった故郷の土で眠ることが出来たのです。
死後6年、亡命から40年後の帰国でした。

92年7月25日 バルセロナで第25回夏季オリンピック(Games of the XXV Olympiad)開催。
現地時間の午後8時から始まった開会式は坂本龍一の作品を含むパーフォマンスが繰り広げられ、171の国と地域の入場行進、後日「最も芸術的」と呼ばれる聖火の点火(火のついた矢をアーテェリーで射て点火)、世界的アーティストによる演奏をが続き、クライマックスを迎えた時、一人の少年が「歓びの歌」の冒頭を歌い始めました。6万5千人の観衆と世界が見守る中、あの「第九」がオリンピック会場で演奏されたのです。コーラスはカタルーニャ語、スペイン語、フランス語、英語で歌い継がれました。僅か4分間の短縮版でしたが、スタジアム全体に拍手が沸き上がりました。
公式にはそれは「歓迎の歌」との位置づけられていました。
しかし、カタルーニャのオリンピック関係者達が、幻の「人民のオリンピック」とその前夜のカザルスのエピソードに因んで、この曲に平和への希求、ファシストとの長く厳しい戦い、そして遂に手に入れた自治・自由への熱い思い・メッセージを込めて全世界に発信したものと私は確信しています。
それは「いつの日か、再び平和が訪れたその時に」と言って果たせなかったカザルス達の誓い=約束が56年ぶりに果たされた瞬間だったのです。
カタルーニャ地方の聖歌が続いて演じられ、3時間に亘る開会式は幕を閉じました。

そして、8月9日の閉会式
スペイン、カタルーニャを代表する世界的テノール歌手、ホセ・カレーラス、そしてサラ・ブライトマン、プラシド・ドミンゴ等の歌唱・演奏が続き、トリを飾ったのは、70歳になるカタルーニャ出身のソプラノ歌手 Victoria de Los Angeles ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘルス (1923 - 2005)。
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彼女がカタルーニャ語で歌った歌こそ「鳥の歌」でした。
朗々たる「鳥の歌」が終ると、世界に一瞬の沈黙が訪れ、午後11時、聖火は静かに空に帰っていきました。

右画像はロス・アンヘルスの「鳥の歌」収録の「カタロニアの歌」(EMI)現在廃盤

2006年6月18日 カタルーニャの自治権の拡大を問う自治憲章改定案への住民投票実施。74%の圧倒的多数の賛成で承認。
改定案は、独立ではなく地方分権の拡大を目指し、同州は、税・司法・行政の分野でこれまで以上の権限を持つことになりました。

カザルスの、そしてカタルーニャの夢はこうして完全に実現。
スペイン内戦勃発から実に70年の歳月が経っていました。

PART2
この曲については、カヴァー曲を含め、「補遺」として別記事があります。そちらも、ご覧下さい。
→ http://themuse.exblog.jp/11567840/
なお、本記事の参考資料等は"WHO'S WHO"ご参照。
by Eiji-Yokota | 2008-09-04 20:42 | SONG
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