Naomi's Choice 小柳有美の歌った歌
by Eiji-Yokota
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TAKEDA    -竹田の子守唄-    Part 2

- trad (伝承歌) -

Part1→こちら

京都市伏見区竹田周辺に伝わる子守唄を関西のフォークグループ「赤い鳥」が採り上げ、70年代にヒットしました。
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その時代に思春期を迎えていた世代には思い出深い歌でしょう。
しかし、そんな方々にとっても、この歌については、いつしか耳にしたり、目に触れる機会がなくなっていった時期があったのではないでしょうか?
同時に発表された彼らの「翼をください」が彼らの解散後も広く世代を超えて知られ、歌い継がれていることとは、あまりに対照的に。
この事実こそが、この歌の辿った数奇な運命を物語るものです。

最初にお断りしておかねばならないことは、この歌を紹介することは色々と込み入った部分、多分にデリケートな要素に触れざるを得ません。この為、極力誤解のないよう、一つ一つ丁寧に説明・検証していきますので、分量的にも、やや長くならざるを得ません。予め、ご諒承ください。




1.子守唄と守り子唄
この歌は嘗て「日本の三大子守唄」と評され、音楽の教科書にも採用されていました。

ところで皆さんは「子守唄」と「守り子唄」の違いをご存知でしょうか?
(上記狭義の「子守唄」を更に「寝させ唄」と「遊ばせ唄」に分類する見解もある)
最初にこの点について、先の三大子守唄を例にご説明しましょう。

「江戸の子守唄」は「ねんねんころりよ、おころりよ」と唄われるあの歌です。これは「子守唄」。(寝させ唄)
「五木の子守唄」は「おどま盆ぎり盆ぎり」と唄われるあの歌です。これは「守り子唄」。
そして、この歌も「守り子唄」。

もうお分かりですね。
母親や近親者が子供を寝かせつけたり、遊ばせる際に歌う歌が「子守唄」。
子守を言いつけられた子供たちが子守をしながら自らの身の上について口ずさんだ歌が「守り子唄」。
「子守娘唄」と呼ぶこともあります。
「ソーラン節」と同じ様に労働の中から生まれた「労働歌」でもあります。

今日の研究では、「守り子唄」は、幕末から明治時代にかけて、商業経済の発展と共に子守娘を雇う経済力を持った層と逆に「口減らし」を兼ね、娘を家の外に出さざるを得なかった貧しい階級の分化が進んだ結果発生したと言われています。また、明治新政府の堕胎禁止方針も守り子の需要に拍車を掛けたとようです。
彼女達の年齢は凡そ7~8歳から12~13歳迄。(後記のように、竹田では特殊事情でやや高齢化していた)
小学校にも行かせてもらえず、多くは見知らぬ土地で給金もなく、粗末な着物と粗食を宛がわれ、一日中赤ん坊を背負い、その背中に雪隠され、むずかればあやす、繰り返しでした。
いずれにせよ、守り子たちは、言わば「女工哀史」の先駆的存在でした。

2.楽曲としての「竹田の子守唄」の誕生
この歌が「発掘」され、世に出るまでの経緯については、今日では殆ど解明されています。
以下の記載の大半は森達也さん、藤田正さん、お二方の著書を専ら参照しました。(注1)(注2)

この歌は1966年、クラシック畑の作曲家尾上和彦さんによって、京都の竹田地区で「発掘」され「再構築」されて世に出ます。(注3)

やがてこの歌は当時の「うたごえ運動」とも連動し、徐々に関西フォーク・シーンで歌われていきました。(注4)この間、「盆がきたとて」の部分の歌詞が他地区の子守唄から追加されたようです。
そして、この唄を耳にした後藤悦治郎さんが、結成したばかりの自分のグループのレパートリーに加えます。このグループこそが赤い鳥でした。
69年11月、赤い鳥はこの唄で「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」全国大会でグランプリに輝きます。(因み2位はオフコース、6位に後にチューリップを結成する財津和夫のフォーシンガーズ)
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右画像はその時のライヴ「第3回全日本ライトミュージック・コンテスト グランプリ1969」(ユニバーサル)
周囲の声に推される形で、赤い鳥はメジャーデビューを果たします。
71年2月5日リリースされた「竹田の子守唄 b/w 翼をください」(冒頭画像 原盤制作:アルファ 販売:東芝音楽工業)はミリオンセラーとなります。今、考えても凄いシングル盤ですね!(注5)

3.赤い鳥とその後
当初、彼達はこの歌のルーツを知らずに歌っていました。
やがて、この歌が所謂被差別部落から生まれた歌だと言うことが分かってきます。
実際に、この歌を先の尾上さんに伝えた岡本ふくさん(注3)は彼らに「村の恥になるから歌ってくれるな」と要請したそうです。
この曲のルーツを知った彼等は先の「盆がきたとて」の部分に換えて「久世の大根めし、吉祥の菜めし、またも竹田のもんばめし」と言う元歌にある歌詞を歌うようになっていました。(赤い鳥は2枚のライヴアルバムでもこの歌詞で歌っています)彼女は特にその歌詞を嫌がったようです。
しかし、彼等は話し合った結果、あるいは知り合いの部落の方の意見も聞いた上で、だからこそ、趣旨をしっかり伝えて、歌うべき歌だと結論し、「ごめんね、おばあちゃん」と心で手を合わせながら歌ったそうです。

やがて、赤い鳥は74年に解散。
ファッショナブルで都会的なポップ路線の「ハイファイセット」とフォーク主体の「紙ふうせん」に分裂。
そして、後者は、その後もこの歌を歌い続けていきますが、前者は、採り上げることはありませんでした。
しかし、この歌だけでなく、よりポップな、あの「翼をください」も当初は歌っていませんでした。
ハイファイは現在は活動停止中ですが、その音楽的な中心人物で、今もソロや様々なユニットで積極的に活動している山本(旧姓 新居)潤子さんは、この間の事情を「赤い鳥は紙ふうせんに引き継がれたと思っていたから」「当時のグループの方向性と全く合わなかったから」と言う趣旨の説明をしています。
しかし、2曲とも当時は彼女がリードボーカルを担当していた曲でしたので、やがて、周囲の勧めもあり、また結果としてハイファイの活動停止が彼女の音楽世界を更に幅広いものとすることを可能にし、彼女はこれらの曲をステージやTV等でも歌い始めるようになります。直接のきっかけは阪神大震災の被災者へのイベントでした。
詳細は藤田正さんのブログをご参照ください。

しかし、それにしても、同じシングル盤に収録されていた、この2つの名曲がその後に辿った道はあまりにもかけ離れたものでした。(注6)
一時期の赤い鳥のベスト盤には、「翼をください」は必ず収録されていましたが、この歌が収録されることはありませんでした。音楽的にも、彼等の歴史を知る上からも欠かすことの出来ない筈のこの歌が。
また、最初のアルバム"FLY WITH THE RED BIRDS"が東芝からCDリリースされた時(1998年)には、オリジナル12曲の内、“Jinsei「人生」"だけが、カットされていました。「制作上の都合により」とだけ記されて。「人生」は「竹田の子守唄」のメロディに別の歌詞を付けたものでした。(注5)
アルファ・レコード(アルファ・ミュージック)は、98年にレコード製作から撤退するまで、ワーナー、コロンビア、東芝等の傘下にありましたが、どこでもほぼ同じ状態でした。
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私が確認している限りでは99年4月27日に東芝EMIからリリースされた「シングルズ」(TOCT-24268 -69)で久々にこの曲が復活しました。(現在廃盤)

そして「赤い鳥 コンプリート・コレクション」(ソニー 03年 右画像)では、注5のURC版や上記ライトミュージック・コンテストのライヴ、そして先の「もんばめし」ヴァージョンを含む様々なテイクを聴くことができるようになりました。

最近のベスト盤の大半では、この歌は復活を果たしています。

一体、この間、何があったのでしょうか?
先の山本潤子さんが90年代の半ばから、この歌を再び歌い始めると、「封印が解除されたのか?」と言う声が一部で囁かれたようです。
では、誰が、何の為に、何の権利があって、この歌を「封印」したのでしょうか?

その答えの前に、長くなりますが、もう少し、この美しい「守り子唄」が生まれた原点・原風景を見てみましょう。

4.歌の背景
この歌に限らず、守り子唄の殆どは江戸時代の終わりから、明治・大正にかけて生まれ、歌われてきたと言われています。
京都の竹田村一帯は田園地帯として知られていましたが、伏見奉行所直轄の野田村だけは特殊で、近隣から移住させられた人達が住んでいました。
一説には、関ヶ原の合戦後の伏見城再興の際、丹波橋通にあった被差別部落を移したとも言われています。
そこは近鉄京都線竹田駅周辺でもごく限定された地域で、現在では、改進地区と呼ばれています。(注7)(注8)
この地区の昭和初期の世帯数は650戸、人口は1263人、内農業従事者は僅か13名だったそうです。(注1)つまり、田園地帯の中で、当時の部落だけは農作に不適な地区をあてがわれ、具体的には高瀬川(七瀬川)から田畑を守る貯水池の役割を担わされていたのでした。
村を飛び出し、当時最先端の紡績工場などの外の世界へ働きに出ても、そこには『差別』が待っていました。結局、彼女達は傷ついて村に帰らざるを得なかったのです。しかし、少女達の働き口は子守くらい。
(長じると鹿の子絞り(染色技法の一つ)に従事することが多かった)
そんな彼女達の生活の中からいつしか生まれてきたのが、この歌です。(注7)
盆についての言及、いい着物も着れない自分達の身を嘆く構造は「五木の子守唄」と相通じるものがあります。大阪始め他地区にも似たような歌(メロディ、歌詞、構造)が残っています。そう言う意味で、虐げられた人々にとって、ここで歌われていることは、独自のものと言うより、普遍性を持っていたものと言えます。現在、この歌の直接の原曲と看做される歌(元歌)が数曲確認され、地元の人によって歌い継がれています。(注8及び注2の付属CDでも一部聴けます)

5.誰が封印したか?
誰一人として、この歌が部落で生まれたことを否定するものはいません。では、誰が放送禁止にしたのか?

そもそも、この国には「放送禁止」と言う制度もありませんし、それを命じる公的機関もありません。
それに一番近いものとして、民放連(日本民間放送連盟)が過去公表していた「要注意歌謡曲一覧表」と言うものがあります。昭和58年11月発表されているもの(有効期間は5年)を最後に以後発表はされていません。これとても、あくまで、拘束力はなく、判断は各放送局に委ねられているものです。そして、この一覧表の中には、この歌は見当たりません。過去にも指定されたことはなかったと言う証言もあります。

にも拘わらず、この歌はいつしか、教科書からも削除され、放送も販売されなくなったことは紛れもない事実です。(歌詞をカットしてメロディだけ掲載した音楽教科書もあったようです)

先の森さんの調査(注1)によると、放送局等が「一方的」に「自粛」していた事実が浮かび上がってきます。
例えば、歌詞にある「在所」が部落を指すもので差別を助長する虞があると言う殆ど思考停止としか思えない理由と発想で。これでは、まるで「言葉狩り」です。
「在所」についても京都では部落を指すという説は確かにあります。しかし、そうでないと言う意見もあります。少なくとも他の地区ではそのような使われ方はされていないようです。たとえ、そうだとしても、どうしてそれが禁止(封印・抹殺)する理由になるのでしょうか?彼等を禁止(封印・抹殺)に駆り立てたものは何だったのでしょうか?
たしかに前記のとおり、部落側から歌うことの自粛要請はありました。
しかし、アーティスト側は事情を全て承知した上で、敢えて歌い伝えようとしました。
にも拘わらず、何故、放送局やレコード会社、出版社は、この歌を封印したのでしょう?
部落側の痛みを思って、彼女等の意を汲んでは自粛したのでしょうか?
残念ながら、そうではありません。
彼等はただただ「怯えていた」のです。

「水平社」に端を発する部落解放運動は、今やいくつかの団体に分かれ、スタンスも微妙に異なっています。
しかし、嘗ての差別に対する激しい糾弾姿勢が、その後、「部落解放運動は怖い」と言うイメージを一般の人に植え付けた側面は確かにあったと思います。また、これに乗じた「エセ同和」と呼ばれる行為も目立ちます。
人間は弱い生き物です。
「会社を守る」と言う美辞麗句で自身の保身の為、迎合したり、見て見ぬふり、あぶないものには近づかない、なかったことにすることがないとは言い切れません。
「事なかれ主義」そして自己責任、自己判断の回避。(「お墨付き」に頼ろうとする)
多分、この歌に放送、出版、販売等関われば、「差別を助長していると糾弾されることになるのではないか」と必要以上に惧れた結果、「臭いものに蓋」とばかり我も我もと皆が、したり顔で、且つ右へ倣えで一斉に「自己規制」=自粛に走ったのが「封印」の真相だと私は想像しています。
(結論は先のお二方の指摘と一致します)
しかし、彼等が蓋をしたものは「臭いもの」ではなく、美しい掛け替えのない私達の貴重な「宝」=財産だったのです。不幸な歴史から生まれた歌でしたが、だからこそ一層輝いて時代の荒波を生き抜いてきた歌でした。「封印」されていると一般に信じられていた時代(80~90年)でも歌い続けた人達はいましたし、少数ですが、放送もされています。要はプロデュースする側の自覚の問題でした。勿論、公式な抗議行動は一切起こっていません。
誰かが「そろそろいいんじゃないか」と言って封印が解けた訳では決してありません。
況や「天の声」などあろう筈もありません。
前述した心ある人達の、地道な努力が再びこの歌に自ら蘇るチャンスを与えていったのです。
そして今、誰よりも部落解放同盟改進支部自身がこの歌や元歌、古老の貴重なテープをCD化してリリースしています。(注8)「自分達の歌だ」と言う誇りをもって。
「竹田」を「隠す」理由は最早どこにもありません。

6.歌の復活・歌の力
30年の間に社会も人々の意識も部落自体も変容してきました。世代も確実に変わりました。
受け容れられる素地はたしかにより大きくなったと思います。
差別がこの世からなくなったから、この歌が再び歌われるようになった訳ではないのです。
そして、差別は形を変え、相手を変え、私達の心の一番弱いところに巣食うどうしようもない厄介なものです。
例えば、「寝た子を起こすな」議論の様に。
だからこそ、常に「意識して」向かい合っていくしかないものだと思っています。

近代化をひた走ってきた日本の中で、そこだけ置き忘れられたような劣悪な環境の中で生まれた歌がある日「発掘」され、ひと時、脚光を浴びた。しかし、その出自ゆえに再び、闇に葬られようとしてしまいました。
しかし、今、歌は自らの持つ力によって、再び人々に親しまれ始めている----

弱い心が更なる差別を生みました。
弱い心が封じ込めた、その歌は、社会的により弱い立場にいた筈の人達の間で生まれたにも拘わらず、あるいはそれだからこそ、自ら輝きを放ち、強い「力」を得て、逆に弱い心の作った壁を打ち砕いていったのです。

私がこの頁で皆さんに伝えたかったことは差別や同和問題それ自体ではありません。
また、「保身」から封印に加担した人達やマスコミを声高に糾弾しようと言うのでもありません。
このような「不幸な」経緯があってもなお、生き続け、歌い継がれ、今、再び、多くの人の前で復活を果たそうとしているこの歌自身の持っている「力」、それ自体についてお話ししたかったのです。それこそが音楽の素晴らしさに他ならないと信じるからです。
私がこうして、書き続けるのもそうした音楽の魅力に捕りつかれているからでしょう。

音楽を聴くのには余計な知識はいらないと私も基本的には思っています。音楽はそれ自体の魅力で生き、輝くものだからです。しかし、時にはこの歌のように、いわれなき「差別」を受け、封印されるものもないではありません。そこから蘇る音楽自身の力と言うものについて、そして再び我々が過ちを犯さない為にも、こうした経緯を知ることは決して無駄ではないと思います。


Part1に戻る時はここをクリック

*******************

(注1) c0163399_156226.jpg
放送禁止歌」(解放出版社 2000年)







(注2)c0163399_15141463.jpg 
竹田の子守唄―名曲に隠された真実」(解放出版社 03年)


   
藤田さんが主宰するブログの「竹田の子守唄」関係はこちらをクリック。


(注3)
1966年、東京芸術座が、「橋のない川」(*)を舞台上演する際、クラシック畑の尾上和彦(ペンネーム:多泉和人)さんは音楽監督として劇音楽(劇伴)を依頼されます。彼は当時、京都市伏見区で合唱団の指導をやっていました。そこでこの部落内に伝承されてきた曲をモチーフにすることを思いついた尾上さんは、竹田を訪ね、「岡本ふく」さんが唄う子守唄を耳にします。彼はその唄を採譜し、これをベースに再構築して歌詞のない楽曲(劇伴)を完成させます。次に先の合唱団から合唱曲へのアレンジを依頼され、岡本さんの歌った歌詞をもとに完成させたのが、今我々が耳にする「竹田の子守唄」の最初の形態です。
今日公開されているいくつかの「原曲」(元歌)と聴き比べると、尾上さんがプロとしていかに完成度の高い作品に「仕上げ」たかが分かります。個人的には(単なる補作にとどまらず)十分「創作」に値する仕事だと思います。

(*)住井すゑ(1902年1月7日~97年6月16日)著。c0163399_1520368.jpg
橋のない川〈1〉 (新潮文庫 02年)

1部から7部まで掲載・ 刊行され、第8部は表題のみを残し作者が死去。明治時代後期の奈良県のある被差別部落(小森部落)が舞台となっている。
1959年から連載開始。1961年第一部刊行。累計発行部数は800万部を超えると言われています。


(注4)
私は未聴ですが、大塚孝彦さんの「ザ・ファースト&ラスト」と言う67年頃作られた自主製作盤に高田恭子さん(*)と一緒にこの歌を歌っているのが、この歌の最初のレコーディングと言われています。また68年には東京中心に活動していた森山良子さんが、既にこの歌をアルバムに収録しています。(「良子の子守唄」 フィリップス)

(*)1946年10月24日 京都府出身  69年に「みんな夢の中」でデビュー。80年 引退結婚。 97年 復帰。

(注5) 
 厳密には、彼等による、この曲の最初のリリースは69年10月にマイナー・レーベル=今で言うインディーズ・レーベルのURCレコード(会員制)の「お父帰れや」のB面に収録されたものです。(現在、注2の付属CDや上のコンプリート・コレクションにも収録されています)
 また、メジャー・デビュー第1弾として、70年6月に彼等は「人生 b/w 赤い花白い花」(原盤制作:アルファ 販売:日本コロンビア)をリリースしていますが、この「人生」は「竹田の子守唄」のメロディに「翼をください」の作詞家、山上路夫さんが別の詞を付けたものです。本文中にある、彼等の最初のアルバム"FLY WITH THE RED BIRDS"のオリジナル盤には「Jinsei」が収録されていました。

(注6)
 「翼をください」が長く歌い継がれた理由としては、その後合唱曲としてアレンジされ、全国で広く歌われるようになったこと、何度かカバーされ、更にサッカーの日本代表の応援ソングとなった等特殊要因もあります。勿論、それはこの曲が名曲だったからに他なりません。

(注7)
 子守唄を実際に歌ってきた最後の世代と共に歌は消滅するのですが、他地区と比較すると20年程、同地区の消滅は遅かった。別に同地区の人が長生きだったと言うことではなく、一度外に働きに出て、差別を受けてまた部落に戻って子守をするしかなかったことの反映だと見られています。そして(言い方が乱暴で、申し訳ないですが)その結果、この地区で生の歌の採譜にギリギリ間に合うことが出来たのです。

(注8)
 「竹田の子守唄 ふるさとからのうたごえ」(takeda 001) 1500円 06年2月
各種通信販売等で入手できます。たとえば、このサイトから。
NPO法人日本子守唄協会「日本の子守唄 100週」

**************************
・赤い鳥が最初に歌った歌詞 (現在最も知られ、歌われている歌詞)
♫♫
守りもいやがる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし  
盆がきたとて なにうれしかろ
帷子はなし 帯はなし     
この子よう泣く 守をばいじる
守も一日 やせるやら     
はよもゆきたや この在所こえて
むこうに見えるは 親のうち  
♫♫

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by Eiji-Yokota | 2008-03-19 11:44 | SONG
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