Naomi's Choice 小柳有美の歌った歌
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BILLY STRAYHORN    ビリー・ストレイホーン

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William Thomas Strayhorn (November 29, 1915 – May 31, 1967)

作編曲家、ピアニスト
Duke Elligton の片腕として、40年代から60年代の同オーケストラのサウンド確立に多大な貢献をした。
代表作に、"Take The “A” Train"、"Chelsea Bridge"、"Lush Life"等

生:米国、オハイオ州デイトン Dayton
没:米国、NY州NYC 食道扁平上皮癌 51歳

父:James Nathaniel Strayhorn
母:Lillian Young Strayhorn

おそらく最も有名なジャズ曲の一つである"Take The ”A” Train"の作者でありながら、彼の名前や生涯はそれほど知られてはいません。
しかし、Miles Davisや彼の同僚とも言えるGil Evansが「自分達のやっていることは(エリントンと)ストレイホーンの再現の試みに過ぎない」と言う趣旨の発言をしていることからも、当時のミュージシャン達にとって、いかに敬愛され、偉大なその存在だったかが推し量られます。




【 ストレイホーンの音楽、エリントンとの関係 】

ストレイホーンが多用する、全音階の増音程(半音上がる)させるマジックはドビュッシー~ラヴェル的な色彩感豊かなカラーをオーケストラにもたらし、あの重厚で芳醇な至福のサウンドを醸し出すことに大きく寄与したと私は思っています。
また、エリントンもストレイホーンもピアノを弾き、二人のサウンドやタッチは良く似ています。
後記のアルバムで聴き比べるのも一興ですが、敢えて、二人の違いを指摘するなら、エリントンがより大胆で力強いタッチ、ビリーはより繊細で細やかなタッチとなるでしょうか。しかし、実際には殆ど区分がつきません。

ビリーは終生、共同制作者であるDuke Ellingtonのあまりに巨大な存在を前に影が薄くなりがちだったことは事実でしょう。
エリントン名義、あるいはエリントンとの共作になっている作品についても、研究者の中にはビリーが一人で書いたと指摘する作品が少なくありません。真相は不明ですが、エリントンを「剽窃」者と指弾する論調もありますが、両者のコラボレーションは、そのような単純なものではなく、もっと緊密なものであり、分離不可能だったと40年近くエリントン・ナンバーを聞き込んで、私はそう確信しています。
勿論、ジャズ・ソング自体が、演奏者により様々に改変される宿命をもっており、「オーケストラは私の楽器」と豪語するエリントンと言う類稀なる才能の持ち主にして強力なリーダーの手に掛かれば、作品を仕上げていく過程では色々なことがあったことは容易に想像出来ます。
仮令、それを「剽窃」と呼ぼうと、その実態は必ずしも「Irving Mills」の項で記載した、ミルズが行った単純な「搾取」とは、全く異なった性質のものだと思われます。

エリントンは自伝の中でストレイホーンとの創作上の関係をこう述べています。
私自身、ハーモニックに行くべきかメロディックに行くべきか迷う時は、いつもビリー・ストレイホーンに相談することにしていた。私達はいつも話し合ったが、そうすると全体の焦点が定まってくるのだった。彼の判断は優れており、その確固たる指針は二人にとって最も適切な方向をはっきりと指し示したのである。
(デューク・エリントン"Music Is My Mistress" 「A列車で行こう」1973年)

勿論、ストレイホーンも絶えずエリトンに従順だった訳でもなく、「裏方人生」に必ずしも満足していた訳でもなかったです。
最近、様々な文献、証言により、その生涯が次第に明らかになってきています。

【 幼少時代  音楽への目覚め 】

貧しい工場労働者の家庭の9人兄弟の4番目に瀕死の状態で生まれたビル(と彼の母は呼んだ…)
母リリアンは内職で得た金で彼に本や楽譜を買い与えたそうです。
一家は直ぐにピッツバーグに引越しますが、アル中で工場労働者の父の暴力を避ける為、リリアンはノース・カロライナ州のヒルズボロウの自分の実家(ビリーの母方の祖父母)Georege & Elizabeth Craigの元にビルを預けます。そこで祖母のピアノを弾くことでビルは音楽に目覚めます。
やがて、父がガスメーカーで働くようになると、家族は再びピッツバーグで暮らし始めます。父は、この頃になるとビルの才能を認め、ピアノの先生をつけ、本格的にクラシック・ピアノを学ばせます。

身体が小さく、なよなよ(sissy)していたビルは、学校でいじめられていましたが、高校時代の1934年3月には25人のオーケストラをバックにグリーグのピアノ協奏曲を演奏し、またコール・ポーター・スタイルのレヴュウのオーケストラのフル・スコアを楽器なしで作曲する等、その才能は誰もが認めるところとなります。

ビルはクラシック音楽家を志したのですが、黒人学生には音大への奨学金は出ず、将来の道を閉ざされたビリーは高校を中退。ジャズにもクラシックと同じ美点があるのに気づき、ソーダ水売り場やドラッグ・ストアで配達のアルバイトしながら、The Madhatters 結成等音楽活動を行っていました。

【 エリントンとの出会い 】

1938年12月、ビル23歳の時、デューク・エリントン楽団がピッツバーグを来訪。
エリントン、39歳。成功した、既に超の付く有名人でした。
バンド仲間の伝手でエリントンの楽屋を訪れたビルはピアノを即興演奏し、エリントンにその才能を認められます。エリントンは彼に編曲の仕事を与え、その際作られたのが、"Something to Live For"と言われています。

エリントンはビルにNYに出てくるように誘い、NY、ハーレムのシュガーヒルにある自宅の住所を教えます。
「シュガーヒルに来るにはA列車に乗ることだ」

1939年1月のビルのNY訪問の詳細については"Take The ”A” Train"の頁を参照下さい。

エリントンは、ビリーをシュガーヒルの自宅に住まわせ、ポケットマネーで彼を養い、自分の片腕とします。
つまり、ビリーとエリントンの関係は、バンドのメンバーに対しリーダーが「給料」を払う「雇用関係」ではなかったのです。
その関係を"boarder"(下宿人、寄宿生)と呼んでいる人もいます。「書生」「食客」と言った意味も含まれているようです。

ビリーをエリントンは"Swee' Pea"と呼んでいました。("sweet"の最後の"t"が省略され、スィーピーと発音します。5フィート3インチの彼をバンドメンバーのソニー・グリーア(ds)が漫画のPopye ポパイに登場する「赤ん坊」に準えて呼んだことが始まりでした)
一方、ビリーはエリントンを「モンスター」と呼んでいたようです。

エリントンは"Flamingo"(Ted Grouya-Edmund Anderson)をビリーに示し、ハーブ・ジェフリーが歌えるようにと編曲を指示します。

ストレイホーンが"Flamingo"で行ったオーケストレーションは、私の考えでは、ヴォーカルの背景のオーケスレーションの一大転換点となり、シンガーの伴奏の為の精巧な装飾としてはルネサンスだったと思う。
(エリントン、前出)

全幅の信頼を置かれたビリーは、文字通りエリントンの影武者・分身・右腕として、演奏に多忙なエリントンの代わりに、作曲、編曲、映画やショウの監督、レコーディングのピアノ演奏に至るまでエリントン名義で担当。
それは音楽史上最高の共同作業とまで呼ばれています。

【 エリントンからの独立と挫折 】

実はビリーはゲイでした。
まだ多くの州で同性愛自体が犯罪と見做され、逮捕されることもあった時代。勿論、公民権法もなくマイノリティには厳しい時代でした。しかし、ビリーはエリントンの庇護の元、自由気ままな生活をエンジョイしていました。
兵役を免れ、偽装結婚をする必要もなく、ボーイフレンドと豪華なアパート暮らし、高価な美術品を集め、創作活動に没頭出来たのです。

それが、しかし、バンドの中の彼の地位に微妙な影を落とします。
実の息子、マーサー・エリントンや、生え抜きのファン・ティゾールなどとの間にビリーは軋轢を生じます。
一方、クラーク・テリーやジョニー・ホッジス、ベン・ウェブスター、ジミー・ブラントン達は彼を支援します。
そう言えば、彼の作編曲には彼らをフィーチャーした曲が多く、特にホッジスのソロ用に彼が作編曲したものに秀作が多いのは偶然ではないかも知れませんね。
以前から知り合いだった美人歌手、Lena Horne レナ・ホーンも、支援者の一人で、二人は男女の仲を越えた付合いを続けました。(もともとスィーピーはゲイですが…)

エリントンは自伝に、こう書いています。
私が彼女にビリー・ストレイホーンを紹介すると、二人は似た者同士にだけ通じる直感で直ぐにお互い気の合う人種だと認め、彼女と前の夫のレニー・ヘイトンはいつもビリーを息子と呼んでからかった。
(エリントン、前出)

編曲家でマーサー・エリントンの同窓生でもあるレニー・ヘイトンは、音楽出版会社を作ろうとストレイホーンを誘います。
ビリーは、自分に著作権がないこと、著作権は莫大な収益を生むことを知り、愕然とします。
ビリーは、エリントンからの独立を望むようになります。
それを知ったフランク・シナトラも、音楽監督としてビリーを好条件で引き抜こうとします。
1948年、ビッグバンドの暗黒時代で経済的にも厳しい時代、エリントンはそれでも彼を離すまいと裏で手を回して計画を阻止しようとします。

例えば、彼の代表作に"Lush Life"があります。
一言で言えば「飲んだくれの人生」

クラシック音楽家への道を絶たれ、自暴自棄になり「パリに逗留し、マティーニをたしなむといったハイブラウな生活を送ること」を夢見た18歳(16歳説も)のビリーの作品と言われています。
当然、エリントンと出会った後、この作品も彼に見せている筈ですが、エリントンは、オーケストラ・サウンドには合わないと考え、また歌詞の内容も気に入らなかったようです。
なんと48年まで同曲は封印されていました。(カーネギーホールでの初演時のピアノはエリントンではなくビリーが弾いています)
1949年、Nat King Cole が同曲を採り上げます。
しかし、この曲の知名度を決定付けたのは、1958年のPrestigeでの同タイトル・アルバムでの録音、及びその後、Johnny Hartmanを迎えて再度録音したJohn Coltraneの1963年のImpulse盤(ジョン・コルトレーン&ジョニー・ハートマン )でしょう。
"My One And Only Love"で紹介したあのアルバムですね。
しかし、ビリーはナットもトレーンの演奏も気に入ってはいなかったようです。
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同曲を含め彼自身のピアノで聴いてみましょう。
Piano Passion(Storyville 2005年)
オリジナルは"Peaceful Side"(Capitol 1961年)

いずれにせよ、この曲は若い頃から晩年に至るまでビリーの心情を象徴する曲だったのかも知れません。
だからこそ、賛否両論巻き起こったDavid Hajdu のビリーの伝記"Lush Life :A Biography of Billy Strayhorn"(North Point 1996年 冒頭画像)のタイトルにもなったのでしょう。

ビリーは楽団を一旦離れますが、結局、「知名度の低さ」と言う「現実」を突き付けられ、挫折。
1950年、古巣に戻ることになります。

所詮、想像の域を出ませんが、その後のストレイホーンの行動をフォローする程に、独立に失敗した敗北感よりも「自分を最大限活かす道はエリントンとの共同作業を置いて他にない」と、彼なりに腹を括って過ごしたのではないか、と私は思っています。

【 エリントンとの第二期黄金時代から死去まで 】

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その後、エリントンは、以前にも増してビリーへの気遣いを見せます。
例えば、左画像は、冒頭でも触れたエリントンとのピアノ・デュオ。二人の違いは実に微妙です。
デュオと言っても、ベースやドラムスも入っています。
オリジナルは"Billy Strayhorn Trio" (Riverside 1950年)
Piano Duets: Great Times (Fantasy 1989年)


二人の第二期黄金時代の代表作"Nutcracker Suite"(くるみ割り人形のジャズ・ヴァージョン)(Columia 1960年)のジャケットに、二人の顔写真が仲良く並んでいるのも、エリントンの気遣いでしょうか。
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しかし、ビリーの「抵抗勢力」との確執はその後も続いていたようです。

また、ビリーは60年代に入ると、キング牧師や公民権運動を支援し、"My People"(Flying Dutcman 1963年)等でその姿勢を明確にしていきます。
エリントンもストレイホーンも次第にアフリカン・アメリカン的視点から全民族的視野に立つようになってきます。


c0163399_17385375.jpg1964年、ビリーはエリントンの最初の来日にも同行します。
この一連の極東のツアーで生まれたのが傑作"Far East Suite 「極東組曲」"(RCA 1966年録音、1967年発売)でした。
殆どの曲が二人の共作です。
中でも"Isfahan"と"Mount Harissa"は私にとっても生涯のお気に入りの佳曲です。

やがて、ビリーは癌に侵されていることが判明、約2年間闘病生活を送ることとなります。
エリントンは最後まで彼に対して経済的支援を惜しみませんでした。

彼の最晩年の作品に"Blood Count"があります。
おそらく、病床で自分の死を覚っていたビリーが、自分の血球数に自分の命を見つめて書いたであろう曲。
静謐な調べの中、澄みきった彼の心情を伝えるかの様な見事なまでに美しい名曲です。
67年3月26日のカーネギーホールでのコンサートに間に合わせるべく、文字通り命を削って仕上げた楽譜をストレイホーンはヨーロッパ・ツアー中の楽団に送り届けたのでした。

彼の死を告げる妹のルースからの電話をリノで受けたエリントンは、その場で大声で泣きながら壁に頭をぶつけて、我と我が身にストレイホーンの価値と長所と美点を語りかけたと自伝に書いています。
「かつてこの世に存在した最も偉大な人間、最も勇気ある男にして最も気高い芸術家」
(エリントン:前出)
一説によると、しばらくエリントンはピアノを弾くことも、ベッドから出ることも出来なかったと言います。
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3か月後、エリントンはバンドに召集を掛け、ビリーの追悼曲集を録音します。
"Blood Count"も収録されましたが、選曲はどちらかと言うと地味で、これまであまり陽の当たらなかったビリーの作品を意図的に採り上げ、"Take The ”A” Train"は収録されていません。追悼盤ですので全体的に抑えた演奏となっています。
セッションが終わって、メンバーがガヤガヤと帰り支度をする中、エリントンは一人ピアノに向かうと、おもむろに、しかしスィーピーへの万感の想いを込めて"Lotus Blossom"を弾きはじめます。
それは生前のスィーピーが自分より上手く演奏するからと、エリントンのピアノ演奏を聴くことを好んでいた曲でした。
エンジニアが気付いてテープを回してくれたおかげで、我々はこの奇跡の瞬間の記録を耳にすることが出来ます。
And His Mother Called Him Bill  ビリー・ストレイホーンに捧ぐ (RCA 1967年)

1969年、ホワトハウスでエリントンの70歳の誕生日を祝うセレモニーが開催された時、エリントンは謝辞の中で、ビリーの"four articles of moral freedom"(精神の自由4ヶ条:注)を読み上げ、当時のニクソン大統領を困惑させたことは有名な話です。

また、エリントンはジュリアード音楽院にビリー・ストレイホーン奨学金を創設しました。

師弟や扶養者と被扶養者、況やリーダーとメンバーの関係を越えた二人の深く濃密な絆を感じさせます。
私は、エリントンがストレイホーンの才能を「喰いもの」にしたと言う説には、到底組し得ません。

今や私の望むことは、私が彼のことを語る時にも、彼が私のことを語った時のような尊厳が含まれている様にと言うことだけである。彼の作った『A列車で行こう』は私達のバンドのテーマ曲であり、迷っているといつも「進め、前へ、そして上へ!」と言って疑問点をはっきりさせてくれた彼の声が私の耳には今なおはっきりと残っている。

ビリー・ストレイホーンは、私の右腕であり、左腕であり、私の後ろについている眼であり、更に彼の頭の中の我が霊感であり、私の頭の中の彼の霊感でもあった。
(エリントン、前出)

(注) 
four articles of moral freedom
1.Freedom from hate, unconditionally,
2.Freedom from self-pity,
3.Freedom from fear of possibly doing something that might benefit someone else more than it would him,
4.Freedom from the kind of pride that could make a man feel that he was better than his brother

精神の自由4ヶ条: 
1.憎しみから無条件に解放されること。 
2.自己憐憫から解放されること。 
3.自分より他人の為になることをやるかも知れないと言う惧れから解放されること。 
4.自分が仲間より優れていると思うプライドから解放されること。


【 代表作 】 ABC順

・Blood Count
・Chelsea Bridge
・Day Dream  (詞:John La Touche   曲:w/DE)
・A Flower Is A Lovesome Thing
・Isfahan (Elf) (曲:w/DE)
・Johnny Come Lately
・Lotus Blossom
・Lush Life
・Passion Flower
・Rain Check
・Satin Doll (詞:Jonny Mercer  曲:w/DE)
・Take The “A” Train 
・UMMG

注:w/DEはエリントンとの共作

【 本ブログの関連曲 】

Take The “A” Train     

【 関連サイト 】

Billy Strayhorn Songs , Inc による公式サイト→Billy Strayhorn.com

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by Eiji-Yokota | 2012-04-30 21:11 | WHO'S WHO | Comments(0)
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