Naomi's Choice 小柳有美の歌った歌
by Eiji-Yokota
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Autumn Leaves/Les feuilles mortes  「枯葉」  Part3

- 1945年 Jacques Prevert + 46年 Joseph Kosma / 52年 中原淳一他 -
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(冒頭画像は tama さん撮影:フリーフォトライブラリー提供)

「枯葉」 この時期になると、自然に口ずさんでしまう歌…
「枯葉」 しかし、この言葉から連想されるものの中に、人類が自ら生み出し、それに向き合わざるを得なくなったものが含まれるようになったのは50年前、そして今年。

一つは「枯葉作戦/枯葉剤」
あのベトナム戦争で使われました。
1961年11月、米国は63年にベトナムへの本格介入・参戦する前から、この作戦を実行していました。
ゲリラが潜むジャングル自体を枯れさせ、農村の経済基盤を破壊する狙いも兼ねて、米軍はダイオキシンを含む枯葉剤を森林、田畑、農村に散布。その散布面積は170万ヘクタール。南ベトナムのジャングルの20%、マングローブ森の36%に及びました。これは、四国全体の面積にほぼ匹敵。散布された量は7200万リットルとも7500万リットルと言われています。
今日でも何らかの症状があるベトナム人は300万人に及ぶとも。
そして障害は米軍他の帰還兵自身やその子供にも及んでいました。
今年、ドキュメンタリー映画「沈黙の春を生きて」(監督:坂田雅子)が、日本の各地で公開され、枯葉剤散布の影響の大きさを伝えています。
カメラは帰還兵の娘として障害を持って生まれた女性(彼女は結婚し子供も産みました)が、ベトナムの病院を訪れ、現地の被害者と会話を交わす姿を追います。

2010年10月、遂に、クリントン米国務長官が「我々が共有する痛ましい過去の遺産」と、ベトナムでの枯葉剤の除去への協力を約束。 今年ようやく始まった汚染除去作業は今後20年はかかるとも言われています。

そして、もう一つは、今年。
枯葉やその周辺から異常な放射線の量が日本各地で計測されました。

ある米国人の友人は「枯葉」「落ち葉」を見て「美しいと思う。掃き捨てるなんて理解出来ない」と言っていました。
彼の発言が米国人の感覚を代表するものかどうかは分かりませんが、我々日本人は昔から「枯れ落ち葉」の掃除自体はせっせとやっていましたね。
思い起こせば、消防法と条例の関係で今では殆ど都会では出来なくなった「落ち葉焚き」も風情ある、この時期の風物詩でした。「たきび」の歌なんか歌いながら。

しかし今や、私達は、落ち葉に触ることに自体に神経を使わねばならなくなってしまいました…

いつもとは、前置きが長く且つ少し異なったものになってしまいました。
曲に戻りましょう。Part1はこの歌の概説、Part2はマイルス門下のカヴァー特集、そしてPart3では、日本語歌詞を中心に見ていきましょう。




【 日本語歌詞 】

この歌にはいくつかの日本語歌詞が存在します。
Nat King Coleの歌った日本語版"Love"は有名ですが、これは64年の2度目の来日時に吹き込まれたもので、この時、「枯葉」も同時に録音されています。訳詞:Shibazaki
また、戦前の一連のヒットで「ブルースの女王」(アフリカ系アメリカ人のbluesではなく、単にスローな歌謡曲なのですが…) と呼ばれていた淡谷のり子は、日本のシャンソンの先駆者でもありました。彼女も日本語の別歌詞(訳詞:麻生るり)で歌っています。詳細は後で触れます。

ここでは日本シャンソン界の黎明期に登場した、次の2つの歌詞を中心に話を進めます。
共に、二人三脚のコラボレーションによって生まれた作品である点も共通しています。

① 中原淳一と高英男 

♫ 枯葉よ 絶え間なく 散り行く 枯葉よ 
(歌詞の全文は Uta-Net で)

この有名なリフレインの歌詞を書いたのは中原淳一 (1913 - 1983 )
そして、この曲を日本でヒットさせたのは日本のシャンソン歌手第1号の高英男(こう ひでお :1918 - 2009 )でした。

「シャンソン」と言う言葉は今日の日本ではある特定のジャンルの音楽を指す言葉として定着していますが、これは日本だけの用法です。
(フランス語の"chanson"の本来の意味は「歌」。イタリア語の「カンツォーネ」、ドイツ語の「リート」と基本的に同じです)
この用法を初めて導入したのが、中原淳一と思われます。
(ついでに言えば「フランス人形」も彼の発案と言われています)
中原は挿絵画家、服飾デザイナー、雑誌編集者、会社経営者。
遺族(㈱ひまわりや)が運営する「中原淳一 公式サイト」では彼のプロフィールを次のとおり紹介しています。

香川県生まれ。幼少の時より絵や造形に才能を示し、18歳の時、趣味で作ったフランス人形が認められ東京の百貨店で個展を開催。それがきっかけで雑誌『少女の友』の挿絵、口絵、表紙絵、付録等を手掛けるようになり、一世を風靡する人気画家となる。

終戦後は、女性に夢と希望を与え、賢く美しい女性になってほしいとの理想に燃え、自分の雑誌『それいゆ』(1946年)『ひまわり』(1947年)『ジュニアそれいゆ』(1954年)『女の部屋』(1970年)を相続いて創刊。編集長として女性誌の基礎を作っただけでなくイラストレーター、ファッションデザイナー、スタイリスト、インテリアデザイナーなど多彩な才能を発揮、その全ての分野において現代につながる先駆的な存在となる。昭和30年代半ば、病に倒れ、長い療養生活の後、70才にて逝去。


大きな瞳が特徴の乙女の絵はある年代以上のご婦人方には格別の想いを呼び起こすのではないでしょうか。
また、日本のファッションデザイナーの先駆的存在でもあり、その影響と共に彼の傘下からは、内弟子であった芦田淳をはじめ、高田賢三、金子功、森英恵、花井幸子、丸山敬太等輩出。
しかし、このブログの読者にとって、より重要な点は、彼のもう一つの顔・功績--日本における「シャンソン」の普及と定着でしょう。
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それいゆ~愛しのシャンソン名曲集」 (キング 2009年)

彼の訳詞を中心とした当時のシャンソンの名曲集。「枯葉」の他「愛の賛歌」「バラ色の人生」を高他の歌唱で収録






戦後、ベストセラー「キモノの絵本」の刊行に始まり、出版人としての中原の快進撃が始まります。
音楽好きの中原は余勢をかって、「ひまわりの集い」なる音楽界を開催していました。
諸説はありますが、こうしたサークルの中で中原は高と交遊を深めます。

高英男は歌手、俳優。本名は吉田 英男。これは母方の伯母の嫁ぎ先に戸籍上の養子になった為で、通常は実家の姓の「高」をそのまま名乗っていた訳です。
樺太庁(現・サハリン)出身。父の希望で医者になるべく上京しますが、結局、歌の道に進みます。
高の才能を見出した中原は痩身の彼をオペラからポピュラーへ転身させ、全面的に支援。
1951年4月、中原と高は連れだって3年の予定でパリに出立。
中原38歳、高33歳。
しかし留守を託した会社の経営状態が悪化し、やむなく二人は1952年6月帰国。
1年2ケ月のパリ生活でしたが、当時ピアフやモンタンの台頭で、活況を呈していたフランスのポピュラー音楽の最前線に触れた二人は、これらを中原の訳詞、高の歌唱で日本に紹介します。
「愛の讃歌」「詩人の魂」「パリの橋の下」「ロマンス」「バラ色の人生」「モンマルトルの丘」「セ・シ・ボン」「アデュー」等

中でも、その最大の成功作が「枯葉」でした。
高はパリではソルボンヌ大学に通い、声楽を学んだマダム・リッツを介して「枯葉」の作者ヨゼフ・コスマと親交を結びます。
高は親しかった歌手・淡谷のり子へ「この歌は貴女にぴったり」と日本へ楽譜等を送ります。気に入った淡谷は舞台で採り上げ、52年9月レコードもリリース(「落ち葉」日本初録音)

帰国後、中原は高の帰朝リサイタルを企画、上記の一連の曲等を披露。
彼は高を日本初の「シャンソン歌手」(「ジャズ歌手」に対抗する言葉として中原が考案)として売り出し、1953(昭和28)年3月、『枯葉/ロマンス』(キング CL113)でレコードデビューさせます。
当時としては異例の10万枚を超える売上を記録、高は一躍スターとなります。
また、この年、作曲家の中田喜直からの指名で「雪の降る町を」創唱。高の代名詞ともなります。

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右は代表曲集「決定版 高英男
(キング 2009年) 
「枯葉」の他「雪の降る町を」「ろくでなし」「オー・シャンゼリゼ」、自身の訳による「雪が降る」等収録。

一方、中原は仕事の過労から1958年7月、高血圧による発作を起こし入院。以後、入退院を繰り返し、遂に、中原が主宰していたヒマワリ社も解散。
64年には、当時パリに在住し日仏両国で精力的に活動していた高から「自分が看病するから」と誘われ、中原は単身渡仏。
パリの水が合ったのか、半年後中原は体調を回復して帰国。
70年には新女性雑誌「女の部屋」を創刊(隔月刊)。 
72年、再び倒れた中原は自宅ではなく千葉県館山へ行くことを望みます。
以前倒れた際、館山在住の知人の誘いで同地で療養してから、その地を気に入り、土地も購入していました。高も隣地を購入し、先に別荘を建てていました。
当時、高自身もフランスで神経性狭心症で倒れ、療養の為、帰国していました。
高は「自分が引受けるから安心してください」と家族を説得。中原61歳。
以後、中原はその死の時まで高の別荘で過ごします。この間、高は俳優業や地方での仕事を制限し、帝劇、国立劇場等の大舞台に立ちつつも、それ以外の時は、文字通り寝食を忘れ物心共に支え、献身的に中原を看護。
それは時として中原の家族との対立をも生じさせました。
83年4月、中原淳一逝去。70歳。
夫人は宝塚のトップスター、男装の麗人葦原邦子。シャンソン歌手中原美紗緒は姪。作曲家、ピアニストの加古隆の岳父。

中原の存命中から、高との異常なまでの親密さと二人の日頃の言動故に、二人は同性愛者ではないかと言う観測がマスコミ中心に囁かれていました。
彼等は葬儀直後の長男洲一にその質問をぶつけます。
中原の遺族は高に対し複雑な感情を抱いていましたが、洲一はその時は、この噂を全否定します。
後に彼は、こう書いています。

僕には、彼らが二人きりの時、どのように過ごしていたかは、知るよしもない。
だが、二人が心から愛しあっていたということだけは、自分が直接見、感じ、さんざん味わい、知り、そして、そう断言できる。
それは、ぼく自身にとってはひどく残酷なところがあったが、美しいものだった。限りなく美しかった、と僕は断言する。

(「父 中原淳一」 中央公論社 1987)

高は日本舞踊も良くし、和服姿でシャンソンを歌うこともありました。
終生独身を貫き通し、やはり中原の発案と言われる当時の男性歌手としては珍しい宝塚風の濃い化粧でステージに立ちました。
カルト俳優としても有名(「吸血鬼ゴケミドロ」等出演)
仏文化勲章シュヴァリエ章受章、紫綬褒章受賞、勲四等旭日小綬章
2009年 肺炎の為、逝去。

② 岩谷時子と越路吹雪 

あれは遠い想い出 やがて消える灯影(ほかげ)も
窓辺あかく輝き 光充ちたあのころ
時は去りて静かに 降り積む落ち葉よ
(歌詞の全文は Uta-Net で)

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越路吹雪の歌唱+岩谷時子の歌詞も有名。その後も広くカヴァーされ続けています。
左は、本曲含め越路の代表作を収めた最近のベスト盤。
エッセンシャル・ベスト 越路吹雪 (EMI 2007年)








越路吹雪(1924 - 1980 東京生まれ)は戦後の昭和を代表する不世出の大スター、エンタティナー。
旧姓・本名:河野美穂子
37年宝塚音楽学校入学、39年歌劇団デビュー。51年退団後はミュージカル、映画、新劇などジャンルを超えて活躍。
59年、作曲家内藤法美と結婚。
天衣無縫な性格、ありとあらゆる意味で観客を圧倒するスケールの大きな表現力、歌唱力は多くの人を魅了しました。56歳。

岩谷時子 (1916 - 2013 ソウル生まれ) は兵庫県出身の作詞家、翻訳家。
マネージャーとして越路吹雪と二人三脚で歩んだ半生は有名。
越路以外にも多くの歌手に歌詞、訳詞を提供。
またブロウドウェイ・ミュージカルの日本公演にも参加(訳詞)。

岩谷は今日まで60年間、それぞれの時代の女性の視点で独自の詞の世界を作り上げます。
その膨大な作品群はそのまま戦後の日本歌謡史の一大支流を形成するものです。
それは初めて日本に登場した女性による女性の視点の歌詞でもありました。
時にエロチックなその歌詞は、しかし不思議な透明感と清潔感に溢れています。
やはり不世出の作詞家と言えましょう。
勲四等瑞宝章受章

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愛の讃歌~岩谷時子 作品集 (EMI 2009年)
本曲は未収録ですが、岩崎の代表作全49曲をオリジナル歌手の音源でコンパイルしたもの。
一家に1枚、戦後昭和歌謡曲集!



1952年9月、宝塚退団間もない越路の舞台の為に請われるまま、その場で「愛の讃歌」に歌詞を付けたことから、岩谷の作詞家としての人生のスタートが切られます。
越路28歳、岩谷36歳。

当時の日本では、まさに、先の中原=高による最初のシャンソン・ブームが起こっていました。
先の舞台とは中原淳一企画、山本紫朗演出によるシャンソン・ショウ「巴里の唄」。
高英男や淡谷のり子等も出演。
越路は病気で倒れた二葉あき子の代役として急遽「愛の讃歌」を歌うことになります。
この時、ピアノを弾き、原詞の内容を岩谷に教えたのが音楽監督の黛敏郎。
黛は51年に受入留学生としてパリに渡りますが、教育内容への反発から1年で帰国。
黛は渡仏中、越路に偶然この曲の楽譜を送っていました。

この前後に越路はNHKラジオ番組「愉快な仲間」で毎週洋楽を1曲、岩谷の訳詞で歌っていました。
彼女はこの後も「サン・トワ・マミー」「ろくでなし」「ラストダンスは私に」等シャンソンの名曲の訳詞を越路に提供。
その背景について「越路さんは、シャンソンをフランス語で歌ったことがないんです。知らない言葉では歌の中身が理解出来ないし歌えないって」(田家秀樹「歌に恋して 評伝・岩谷時子物語」 ランダムハウス講談社 2008年)と岩谷は答えています。
しかも、その内容は、これまで何度か触れた様に、必ずしも原詞の忠実な翻訳ではなく、内容を十分咀嚼した上で越路に合わせて書き直した、謂わば、「超訳」とでも言うべきものでした。
やがて、彼女は訳詞から本格的な作詞活動に入ります。
ザ・ピーナッツに提供した「ふりむかないで」(62年)が、その嚆矢でしょう。
岩谷は宝塚、東宝幹部の計らいで、越路と共に51年に宝塚から東宝に移籍。宝塚時代から仲の良かった岩谷は、以後、越路の死まで終生彼女のマネージャーを務めます。63年に岩谷は東宝を退社しますが、越路からは報酬を1銭も受取らず、作詞家として自活しながら、越路のパートナーとして生涯に亘り支え抜きます。

岩谷はフランスに行ったこともなければ、フランス語を口にしたことも(越路の葬儀に駆け付けたアダモに「メルシー・ボクー」と声をかけた唯一の例外を除き)ないそうです。
一方、越路はシャンソンの勉強の為にパリに行きたいと所属事務所に懇請し、53年4月単身旅立ちます。当時、パリには小林秀雄や今日出海が滞在中でした。また、石井好子も現地で歌手活動を行なっていました。
この時、岩谷の勧めで彼女は生まれて初めて日記を付けます。
そこには、これらの人々との交遊を含め、2か月余りのパリでの越路の生活が活き活きと綴られています。
中原と高の渡仏から2年後のことでした。
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5月7日
ピアフを二度聞く。語ることなし。小林さんも感激していられた。私は悲しい。夜、ひとりで泣く。悲しい、さびしい、私には何もない、何もない。私は負けた。泣く、初めてパリで。

(越路吹雪「パリ日記」  越路吹雪・岩谷時子 「夢の中に君がいる―越路吹雪メモリアル」 講談社 1999年 所収)

以後、越路は毎年のようにパリに赴き、様々なものを吸収します。

(後年、アメリカナイズされていくパリを寂しがった越路の言葉)「パリは変わったけどシャンソンの『枯葉』の歌こそがパリだと思う、あれが本当のパリよ」
私には胸の奥に、ひとつの秘めた思いがあった。
年をとって仕事をしなくなったら、二人でパリへ行きたいと思っていた。
二人はいつか白髪の老女になっているだろう。彼女はパリをよく知っていて、私は初めてのパリで、でたらめなフランス語をしゃべって、彼女はさも可笑しそうに笑うだろう。
二人は、公園の樹の下でうずくまり、宝塚にいた頃のように肩を抱きあって笑いころげるだろうと…。
私は『枯葉』の歌は、もう聞きたくない。

(岩谷時子「同行二人」 同上 所収)

1980年、越路は胃癌で逝去。
岩谷の悲嘆はいかばかりだったでしょうか。

彼女の初の本格エッセー集に収録されている詩から

越路吹雪よ
四十年近い友情は 月日と共に昇華され 
あなたは今 私の胎内に宿る 
愛し子になった
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(中略)

越路吹雪よ
淋しくはないか
私は淋しい

(中略)

越路吹雪よ
あなたとの別れは あまりにも早すぎ 
私が希望を探すには おそすぎた
越路吹雪よ
越路吹雪よ
逢いに行ってはいけないか
越路吹雪よ…

(「眠られぬ夜の長恨歌」 岩谷時子 「愛と哀しみのルフラン」(講談社文庫) 初版1982年 所収)

岩谷は、越路の死を乗り越え、その後今日まで更に30年以上に亘り、活動を続けます。
それは既に越路と共に宝塚を退団・退社してから死別まで辿った年数を上回るものでした。

PS
岩谷時子さんが2013年10月25日逝去されました。97歳。
沢山の歌詞を人生をありがとうございました。
ご冥福をお祈りします。

【 番外編 カヴァー 】
日本語歌詞のカヴァーではありませんが、日本人アーティストのカヴァーを一つ。
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山下洋輔「センチメンタル
ユニバーサル 2003年

85年録音のソロ・アルバム。
山下は以前から「枯葉」はソロで何度も採り上げており、お気に入りの1曲思われます。
勿論、このスタンダードも山下流に過激に解体されていくのですが、私には心地よく響きます。
前衛ジャズなんか…と言う人にむしろお勧め、入門編としても諒。



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by Eiji-Yokota | 2011-11-14 00:08 | SONG | Comments(0)
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