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Naomi's Choice 小柳有美の歌った歌
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赤とんぼ   Part3

 - 1921年 三木露風 + 1927年 山田耕筰 -
赤とんぼ   Part3_c0163399_1210265.jpg


Part1では、この歌の歌詞(詩)を巡る様々な見解について、Part2では作詞者:詩人三木露風について見てきました。
Part3では、まず、作曲者山田耕筰について、そして、この歌曲を巡る見解、論争等、カヴァーについても見ていきたいと思います。

冒頭画像は「きすけさん」(フォトライブラリー所収)によるもの。



【 作曲の経緯 露風と耕筰の出合い 】
作曲した山田耕筰(1886 - 1965)は間違いなく、近代日本音楽(クラシック)の先駆者、開拓者であり、大御所的存在でした。
その人生は実に春秋に富むものであり、また、女性関係を含む、その言動はしばしば物議を醸し、音楽的評価以外にも様々に評されています。いずれにしても、その広範囲な活動は、とてもこのブログで言及出来るものではありません。

但し、その一部ではありますが、「ちんちん千鳥」「ふるさとの」の記事で、それぞれの歌に関係する部分については記していますので、参照ください。

ここでは、上記記事に続き、露風との関係と作曲前後の耕筰に焦点を中ててみていきます。

註:名前の表記について
への改名は1930年(戸籍上は1956年)。本曲作成時点では「耕」。
但し、便宜上、著作物の引用以外は「耕」の表記で統一。

山田耕筰と三木露風の仲立ちをしたのは、「ふるさとの」の作曲者、斎藤佳三でした。
「ふるさとの」で記した様に、山田と斎藤が共に留学先のドイツから(ロシア経由で)帰国したのは1914年のことでした。
そして、山田は三木主宰の「未来社」の同人となり、初の歌曲集「露風之巻」(大阪開誠館)を出版。
以下、その出版に際して書かれた露風の文章から。
*****
作曲といふものが其娯楽的な、何等個性の上に立ってゐない漂白時代から離れて、「芸術」としての純粋性を帯びるやうになったのは、我日本に於いては山田氏以後のことである。
(中略)
山田氏が伯林に行ってから斎藤佳三君の中介で私との間に文通が開けた。非常に親しい、情緒が其消息の上に流れ合った。
(「耕作氏歌曲集上梓に就いて」 1917年 未来3年5号)
*****
これを、少し時計の針を戻して、山田側から見ると、次の様になります。

1910年、山田はドイツへ留学。露風の詩集「廃園」(1909年)を携えていました。
24歳の誕生日の直後、語学と作曲の勉強に明け暮れる山田の元に許婚者から婚約の解消を告げる手紙が届きます。
打ちひしがれ神経衰弱となった山田でしたが、恩師レオポルド・ヴォルフ教授の助言で始めた散歩も効果があったようで、次第に悩みも薄らいでいきました。
*****
赤とんぼ   Part3_c0163399_1625329.jpg7月27日の夕飯後、宿の側を流れるシプレェ河に添うてしずかに歩き、リンデの樹陰に坐った。手には『廃園』があった。私は、ただゆるやかに流れ去る水面を見つめていた。その時、私は何を考えていたかは覚えていない。しかし、口は知らぬ間に、露風の詩『嘆』を歌っていた。多忙と懊悩に閉ざされていた私の心は、諦観の寂光に照らされ、さみしくも歌い出でたのである。こうして露風の巻に収められた『嘆』につづく、『風ぞゆく』『異国』『燕』『ふるさとの』等の、一連のリィトは、ほとんどシプレェの河辺で書き綴られたのであった。
曲の良否は別として、やがてこの『嘆』は、日本最初のリィトとして記録されるであろう。

(「若き日の狂詩曲」1951)
右画像は「自伝 若き日の狂詩曲 (中公文庫)」(中央公論 1996年)
*****
山田はその後、やはりベルリンで露風の詩にインスピレーションを受けた交響詩「暗い扉」(1913年)を書き上げます。

以下は小島美子(東大文学部、芸大楽理科で学び、主として民俗音楽の研究で知られる)の論文より。
*****
この時代の山田耕筰にとって最大の問題は、日本語をどのように扱うかということであった。
(中略)
三木露風の「廃園」から「嘆き」「風ぞゆく」10曲目の「唄」と言う作品を作った時に、山田耕筰はことばとメロディについて開眼するところがあったらしい。
それは既に日本に帰ってからのことで、大正5年(管理人註:1916年)になっていた。
この彼の探り出した方法は日本語のアクセントやイントネーションをそのままメロディに移すということであった。

(中略)
言葉のイントネーションとメロディを結びつけることを考えついたきっかけは、ヨーロッパからの帰途、ロシアでダルゴムィジスキーの主張に接したことであった。
ダルゴムィジスキーはロシア民謡の伝統的な手法に学んで、「ことばの表現するものをそのまま音で表現する」ことを主張し、また実際にそれを実行してレシタティーブのようなメロディを多く書いた。

(中略)
私が山田耕筰に会って色々な質問をした際に、これ(管理人註:ダルゴムィジスキーからの影響)について確かめると、彼は我が意を得たりといわんばかりの顔になり、たいへん喜んでそのことを肯定したのである。 
(「日本歌曲の古典 山田耕筰の歌曲」~日本楽劇協会「この道 山田耕筰伝記」恵雅堂出版 1982年 所収)
*****

こうして二人の交流は、その直接的出会いの前から、日本の歌曲に大きな足跡を刻むこととなったのです。
ところで、この「唄」のメロディ、小学唱歌の「蝶々」を、その部分丸々引用してますよね。「蝶々」の元唄はスペイン民謡だそうですが…
露風は自作のポケット判選集「小鳥の友」(新潮社「童謠詩人叢書」第3 1926年) を山田に贈ります。
当時、ようやく結成した日本交響楽団が分裂、弟子にして共に手を携えて日響を育ててきた近衛秀麿にも去られ、流石の山田も落ち込んだようです。
山田は神奈川県茅ヶ崎に引越。日響再建の為、出版部を設け、茅ヶ崎から東京新橋まで毎日通勤します。5人の詩人の童謡に曲をつけた「童謡百曲集」全5集の大半の曲はこの通勤途上の列車の中で書かれたものでした。「この道」「あわて床屋」も、この時の作品です。(詳細は「ちんちん千鳥」参照)
この作品は、1927年1月29日に作曲され、『山田耕作童謠百曲集』第2集の27曲目として日本交響樂協會出版部から同年出版。

【 楽曲の広がり 】
この曲は後記の團伊玖磨の随筆が示唆している様に、必ずしも最初から人気があった訳ではありません。
当時の各記録が今一判然としませんが、最初期の録音の一つは、原信子(1892 - 1979)によるそれです。
彼女は、日本人最初の国際的ソプラノ歌手『三浦環』(1884 -1946)に師事し、浅草オペラのスターとなり、渡欧してミラノ・スカラ座に在籍。帰国後の「トスカ」や團伊玖磨の「夕鶴」初演のおつう役が有名。
34年7月9日に作曲者自身が指揮するコロムビア管弦楽団の伴奏で録音され、11月新譜としてコロムビアからリリースされました。
山田耕筰の遺産(11)器楽曲編」(コロムビア 1996年)に収録。入手は中古で。

また、当時の人気童謡歌手、金子一男も最も初期に録音。(後に紹介する「赤とんぼの謎」に収録)

おそらく、それぞれの時代の各演奏者(唄声喫茶を含む)により、この歌は歌い継がれ、演奏され続けるのですが、それに加え、私はこの曲は次の3段階を経て飛躍的に国民的歌曲として浸透していったと思っています。

第1段階 教科書採用 1947年
「赤い鳥」に代表される童謡運動が、官製の文部省唱歌に対するアンチテーゼであったことは既に書きました。(「ちんちん千鳥」参照)
しかし、やはり戦後教科書に採用(1947年)されたことで、その知名度は一気に広がったと言わざるを得ません。Part1で、私がこの詩の第3連の割愛を批判した、あの教科書です。しかし非は非として、功は功として評価すべきでしょう。

第2段階 中央映画「ここに泉あり」 1955年
これは現在の群馬交響楽団の前身、高崎市民オーケストラ「群馬フィルハーモニー・オーケストラ」の草創期(終戦直後)を描いたもの。
赤とんぼ   Part3_c0163399_15445565.jpg監督は今井正。出演者は岸恵子、岡田英次、小林佳樹、加東大介、東野英治郎、加東大介、大滝秀治、沢村貞子等。実は直前に東宝で争議があり、東宝を飛び出した一団により作られたものです。制作自体も映画の内容を地で行く手弁当に近い状態だったようです。山田耕筰も自身の役で出演、ラストでは第九を指揮をします。古今の名曲がちりばめられ、勿論、「赤とんぼ」もクライマックスで使われます。音楽は團伊玖磨。
観客動員数は300万人とも。

第3段階 大映映画「夕やけこやけの赤とんぼ」 1961年
よくあるチンピラ・社会的弱者の少年少女達の更生・活躍の物語。タイトルにもあるとおり、この曲が重要なモチーフとなります。
監督:島耕二、出演:渚まゆみ、前田謙一
山田は既に車椅子生活を送っていましたが、そのままの形で自身の役で出演。やはりラストでの、この曲の全員による大合唱を指揮します。

なお、山田の逝去(1965年12月29日)後、築地本願寺で行われた楽団葬(翌年1月11日)では、全交響楽団の有志による「赤とんぼ」他が演奏されました。この曲の指揮は、一旦袂を分かち、後(1931年)に和解した近衛秀麿でした。

【 楽曲を巡る話題 】
この歌は日本で最も有名な童謡であり、多くの人に愛唱されてきました。それ故に、様々な話題を提供することともなります。

その中で、特に次の点がよく喧伝されています。
①アクセントが不自然ではないか?
②パクリではないのか?

① アクセントの不自然さ
色々な方が問題提起、論議していますが、作曲家團伊玖磨(1924 - 2001)の随筆に簡潔に纏められています。
團自身も日本を代表する音楽家と言って差し支えない存在でしょう。彼は東京音楽学校(今の芸大)に学びながらも学外で山田耕筰の指導を受けていました。山田は母校には批判的で終生母校の教壇には立つことはありませんでした。

*****
一昔前、山田耕筰先生の作曲の中で最も歌われていたのは「この道」と「からたち(管理人註:からたちの花)」だった。然し、今では「あかとんぼ」がその位置に取って代わっていると思う。
*****
で、始まるそのエッセーは、次の様に記しています。
*****
この歌は、日本語の抑揚の通りに作曲する-言い換えれば、日本語の抑揚から旋律を引き出す-事を力説して居られた先生の作品であっただけに、第3小節目の(歌詞の第1行の下段の)あかとんぼの旋律が、先生の理論と喰い違っているではないかと言う議論が起きた。
「あかとんぼ」を発音する時は、あとんぼ、と「か」が抑揚上高く、先生が作曲されたようにかとんぼ、と「あ」が高いのは誤りだと言うのである

(中略)
先生が言われるには、「自分が作曲したようにかとんぼというのが正しいのです。江戸時代から、東京ではかとんぼと言い、あとんぼとは言いませんでした。生粋の江戸っ子に訊いてごらん」という答えだった。
(管理人註:太文字部分は原文では普通文字で傍点を付しています)
(「赤蜻蛉」/「好きな歌・嫌いな歌」読売新聞社1977年 所収)
******
実際に團が複数の江戸っ子に確認した結果は山田の言うとおりだった、と記しています。
「あかとんぼ」以外の単語についても抑揚と旋律の不一致を指摘する声はあります。
今日の日本語の歌では、必ずしも、標準語どおりの発音、抑揚どおりに作曲されていないのはご存じの通りで、中には、敢えて抑揚を無視する作曲・歌唱スタイルすらあります。

したがって、この議論は今日的な意味は薄れていると思われますが、相変わらずネット等でも採り上げられているのは、次の盗作説とリンクして受け留められているからかも知れません。

② パクリ説
盗作疑惑が指摘されている元歌は、シューマンの「ピアノと管弦楽のための序奏と協奏的アレグロ 二短調 作品134」"Introduction & Allegro In D Minor Op.134" (Concert - Allegro with Introduction for Pianoforte and Orchestra Op. 134) です。

以下、吉行淳之介の随筆「赤とんぼ騒動」からの引用。
当初、文芸春秋1981年9月号に掲載。
*****
優美な曲(管理人註:シューマンのピアノ協奏曲)で心地よく聞き、B面の小曲も聞いているうちに、その2曲目から突然「赤とんぼ」のメロディが飛び出してきた。
*****
吉行はこれを知人に話したところ、やがてそれを伝え聞いた夕刊フジの文芸部から電話が掛かってきます。
*****
「音楽ではよくあることだから、おもしろい話として取り扱ってください」と言った。「ドイツの民謡から、シューマンが採ったメロディかもしれない」とも言っておいた。内容はそのとおりになっていたが、『えっ山田耕筰さんが盗作!?」なんていう小見出しも付いていた。
この記事が出て三日後、同じ新聞に関連記事が出た。石原慎太郎氏が二十年ほど前、友人のドイツ人と一緒のとき、「赤とんぼ」の曲が流れると、「これはドイツの古い民謡だよ」とそのドイツ人が言い出し、「いや、これは日本の有名な作曲家のものだ」という石原氏と意見が対立したそうだ。そのことを石原氏が随筆に書いたところ、当時存命の山田耕筰氏から強い抗議がきた、という。

(中略)
音楽関係者は、「音符は七つしかないので、その組合わせには限りがある。似てしまうのも仕方がない」という言い方をする。しかし、その限られた音符が使ってあるのに、曲を聞いてすぐに、「これはバッハ」、「これはドビュッシー」と判別できることのほうを強調してもらいたい。その言い方でいえば、「赤とんぼ」はまぎれもなく山田耕筰である。
それにしても、発表した小説の半分が先行作品にそっくりであったとしたら、これは大問題になるだろう。
(「赤とんぼ騒動」潮出版社 1981年)
*****
なお、吉行は作品名の「ニ短調」の「二」を脱落して記載。後記「夕刊フジ」の記事も同じ。
「夕刊フジ」掲載は1981(昭和56)年4月12日。吉行の写真入りで「赤とんぼ…シューマンから飛び出した!!」の大見出、「そっくりの旋律18回も」との小見出、2面のほぼ1頁全面を割いた扱い。
なお、吉行が指摘した石原の随筆では中央公論に昭和36年7月掲載の「復権」。
『ドイツ製の輸入品らしいと覚った』」と書いたところ、山田が別の雑誌で反論したようですが、私はその反論は確認出来ていません。
「まあ、確認のしようがないから、あやまったような気もするけど…」と石原は13日の同紙のインタヴューに答えています。(4月15日付同紙)

ロベルト・シューマン Robert Schumann (1810 - 1856) のこの作品は1853年作。
比較的晩年に属するもので、前年、彼はデュッセルドルフの市立劇場の指揮者に就任していましたが、楽団との軋轢により精神的に不安定の度合を増し、幻聴に悩まされていました。
実はこの1年、シューマンは多くの作品を生み出します。ブラームスの訪問を受けたのもこの年でした。シューマンはその才能を認め、出版社紹介等尽力。この作品はブラームスに捧げられたものでもありました(異説あり)。そして、遂にこの年の11月、シューマンは指揮者を辞任。
翌年、シューマンは、「自分は精神病院に行かなければならない」と言い出し、その翌日、ライン川にかかる浮橋から身を投じ、幸い、通りがかった船に助けられています。しかし、以後は病院暮らしとなり、そこで最期を遂げます。

シューマンのこの曲は今日でも殆ど注目されることはなく、演奏される機会も決して多くはありません。
赤とんぼ   Part3_c0163399_14445068.jpg
右は「シューマン:ピアノ協奏曲/他」 (Sony 1997)。
94年12月のジルヴェスター・コンサートでのライヴ。
マレイ・ペライア Murray Perahia (p)とクラディオ・アバド Claudio Abbado 率いるベルリン・フィルとの共演は、シューマンの屈折したロマンとほとばしる情熱を浮かび上がらせます。

山田がベルリンで音楽や藝術全般に浸っていたのは1910~1914年、古典から憧れのリヒャルト・シュトラウスまでを貪欲に吸収したこの時期、この曲に触れた可能性はあると考えるのが自然でしょう。
そもそもシューマン自身がドイツの民謡の一節を引用したとの説によれば、その民謡のオリジナルに触れた可能性も。しかし、その民謡が未だに特定されていないのは不思議なことです。

シューマンのこの曲を聴いていると、唐突にあのメロディが出てきます。
赤とんぼ   Part3_c0163399_14422023.jpg丁度、この切手に記されている旋律と確かによく似ています。
それは主旋律と全く異なり、その後もあちこちでフラフラと出てきては直ぐに消え、最期まで主旋律と調和することはありません。このメロディを挿入した音楽的効果、狙いがどこにあるのか、正直途惑うばかりです。まるで、シューマンの幻聴に付合っているかのようです…
メロディは確かに似ていますが、その世界は「赤とんぼ」のそれとは全く別のものです。

あるいは「潜在意識における盗用」(ジョージ・ハリスンの"My Sweet Lord"が、シフォンズのヒット曲"He's So Fine"の盗作であるとの訴訟での結論。1976年)である可能性も否定しきれませんが…
しかし、"My Sweet Lord"がその後も多くの人に愛され続けたように、この件で、この曲の価値が貶められることはないと確信しています。

あとは、皆さんの耳で実際に確認して下さい。

【 カヴァー 】
赤とんぼ   Part3_c0163399_1234252.jpg

赤とんぼの謎」(キング 2004年)は、上記シューマンの曲も含む24のヴァージョンを収録。
イスラエルでも、この曲は長くラジオ番組のテーマ曲だったそうで、このCDはイスラエルの子供達の合唱から始まります。
以下、ギター(鈴木大介)、ハーモニカ(波木克己)、コントラバス(ゲイリー・カー)、フルート(ランパル)による演奏、そして日本、欧米の各歌手、英語、ドイツ語、フランス語ヴァージョン。ドイツ語版は勿論、「ちんちん千鳥」で紹介したヘフリガー。全てに言及は出来ませんが、それぞれ、発表当時話題になった演奏を丁寧に拾っています。

上記以外で、いくつか紹介しましょう。

赤とんぼ   Part3_c0163399_15351051.jpg1955年、山田は美空ひばりに「山の小駅」「風が泣いている」の2曲を提供、自宅で直接レッスンしています。1973年6月8日、彼女は山田作品をあつめた企画アルバムの為、先の2曲を含む22曲を録音。曲は2集に分けられ、この曲は当初「赤とんぼ~美空ひばり 山田耕筰を唄う~その2」(コロンビア 1974年8月25日発売)に収録。
独特のヒバリ節と言うか、こぶしを利かせていますが、違和感はありません。
右画像はそれらを集成した「山田耕筰の遺産(14)美空ひばり編」(コロムビア 96年)。入手は中古で。

赤とんぼ   Part3_c0163399_14424192.jpg
最近のアルバムでは「美空ひばり カバーソング コレクション~叙情歌をうたう」(コロムビア 2010年)に同曲が収録されています。





赤とんぼ   Part3_c0163399_1444273.jpgジャズの世界では、「ジャパネスク~日本の詩情」 (ポニー・キャニオン 2009年)
マーク・ヴァン・ローン Marc van Roon (p)による 2代目ヨーロピアン・ジャズ・カルテットは、新旧様々な日本歌曲集。ここでは凝ったアレンジもなく、アドリブも少なめでストレートに曲の良さを前面に出しています。


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by Eiji-Yokota | 2011-10-11 00:00 | SONG
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