Naomi's Choice 小柳有美の歌った歌
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赤とんぼ   Part1

- 1921年 三木露風 + 1927年 山田耕筰 -
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夕焼け、小焼の、
          赤とんぼ、
                負われて見たのは、
                            いつの日か。

山の畑の、
      桑の實を、
            小籠に摘んだは、
                       まぼろしか。

十五で姐やは、
         嫁に行き、
               お里のたよりも、
                         絶えはてた。

夕焼け、小焼の、
           赤とんぼ、
                  とまっているよ、
                            竿の先。


作詞は三木露風、作曲は山田耕筰。
二人、それぞれにとっても童謡の代表作であり、且つ日本で最も愛されている童謡の一つでしょう。

民間非営利団体(NPO)の「日本童謡の会」(事務局東京、伴和夫会長)が2003年公表した「好きな童謡について」のアンケート結果は、「赤とんぼ」がダントツで1位、得票数でも全体の約15%を獲得。
因みに、10代以下から70代以上までの世代別順位でも「赤とんぼ」は1位を独占。
同会では「赤とんぼを選んだ理由には『よく母が歌ってくれたから』という回答が多く、母への思いを重ね合わせているのではないか」と分析。
他 同種のアンケート・選定でも、この曲は常にトップにランクされています。(注1)

三木露風は、当初、「赤蜻蛉」と題したこの詩を、自身が童謡欄を担当していた児童教育雑誌『樫の實』(研秀社)の1921(大正10) 年8月号に発表。
1927(昭和2) 年1月、山田耕筰は、かねてより親交があった三木露風から贈られた童謡集「小鳥の友」の中の詩に曲をつけます。この歌もその一つでした。
この詩の背景、二人の創作の経緯は以下の本文及びPart2で詳しく触れます。

冒頭画像は、露風の直筆原稿を色紙に写したもの。 財団法人 露城館・矢野勘治記念館 所収。同色紙の販売も行っています。
なお、後述しますが、露風はこの詩に推敲を加え、それぞれの詩集や詩碑に記していますが、画像の下に記した詩は、漢字仮名遣い句読点は後記1959年の自筆原稿によりました。
(但し、レイアウト上、各行の頭の位置は流れるように敢えてずらしています)




【 詩の解釈をめぐって 】

多くの人が口ずさんできた歌だけに、歌詞をめぐって、各人各様、実に様々な解釈が生まれています。
少し検索しただけでもネット上で議論百出状態です。

中には思わず首を傾げざるを得ないものもありました。

曰く、「この歌はゼロ戦が米軍に追われている光景を歌っているものでであり、日本敗戦を予言したもの」
曰く、「『姐(ねえ)や』は露風の実の姉、嫁に行ったのではなく、貧しさ故の人身売買だった」

一旦生れ出た歌は作者の意向を離れ、受け手各自に自由に解釈される宿命にあります。
作者の伝記的事実に依存することなく、表現されたもの(例:言葉)だけで解釈する姿勢自体は決して間違ってはいないと私も思っています。それこそが基本だと。
但し、自己の解釈を対外的に公開する以上、ほんの少し確認・調査すれば容易に判明する背景や事実関係については調べることが、最低限度のマナーであり、且つそれは自説の検証、場合によっては補強材料にすらなり得るものです。

しかし、最初の解釈は二重三重の誤解が積み重なった、ある意味では、「誤解」の宝庫と言えます。
これらを分析することは、逆に今日では有意義なことかも知れないと私も考えるに至り、以下に試みてみます。

まず、そもそも論として、ゼロ戦こと零式艦上戦闘機が「赤とんぼ」と呼ばれた事実は私の調べた限りありません。
例えば、http://rokujizou3.blog60.fc2.com/blog-entry-603.html参照

おそらく、この誤解は、当時の練習機が橙色(一部機の尾翼は赤色)に塗装されていた為、「赤とんぼ」と呼ばれたこととゼロ戦神話との混同によるものではないかと思われます。

右画像はプラモの「赤とんぼ」c0163399_145552.jpg
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付言すれば、この「赤とんぼ」こと、二枚羽根布張りの九三式中間操縦練習機で演習を行っていた神風特別攻撃隊第三次竜虎隊に太平洋戦争末期に特攻命令が下ったことは、よく知られている歴史的事実です。
しかし、ここで「追われて」と言う理解は、この歌を耳で聴いて、うろ覚えした結果の誤りであり、作者自身が記した歌詞を見れば「負われて」=背負われて、であり、誤解が生じる余地はありません。

「姐や」を実の姉とする見解についてですが、露風には義理の兄弟含め姉はいません。
これは多くの研究者達によって調べ尽くされています。
「姐や」の言葉、存在自体を知らない世代による誤解の可能性が高いと思われます。
(戦前でも「姉」を「姐」と呼ぶことは、まず、あり得ない)
このブログの以前からの読者であれば、既述の「竹田の子守唄」「五木の子守唄」で見てきた「守り子」の暮らしや実態に思いが至ったことでしょう。「負われている子供」から見れば、当然彼女達が「姐や」となります。
三木家は「ふるさとの」で見た様に、地元の名家ですので、「子守娘」を頼んでいました。
それは後で紹介する露風の文章からも明らかです。

これらの誤解の最大の要因の一つは、この歌が「戦後」教科書に採用された際の文部省による一連の「言葉狩り」の結果かも知れません。
文部省は『五年生の音楽』(昭和22年) に本作を掲載する際、「十五で姐やは嫁にゆき・・・」以下の3番を省略しました。
おそらく、前年に公布された新憲法を踏まえ、差別的用語及び奴隷制度と捉えられかねない「姐や」や、「15歳での婚姻」(戦前の民法では女性は15歳で結婚出来た)は回避すべきと判断したのでしょう。
分からなくもない対応ですが、むしろ、当時の制度・考え方と新しいそれとを敢えて対比して教えることで、逆にこの歌は「活きた教材」にも成り得た筈で、原文どおり掲載し背景を教えるべきだったと私は思っています。

この詩の解釈上、極めて重要な3番を削除したことにより、結果として「姐や」の語義も、そこに込められた作者の「姐や」に対する想いもカットされて、世の中に伝わってしまった=誤解に拍車をかけたのではないでしょうか?
(現在はご高尚のとおり、教科書は各出版社が自由に作成しています。もっとも文科省による検定は残っていますが…)

なお、この「15歳」を巡って、「姐や」の歳ではなく、露風の年齢とする見解もありますが、後記の作者の文章を読めば、答えは明らかです。
当時は年齢を「満」ではなく「数え」で数えていましたので、「姐や」は実際は14歳で結婚したこととなり、早すぎる、不自然だと言うのも「作者年齢説」の論拠の一つだったようですが、「おてもやん」で既述のとおり、当時の結婚の戸籍へ記載は結構杜撰と言うか、事実婚が先行していたのが実態でしたので、さほど不自然ではありません。
また、作者は後の文章によれば、風の便りに彼女の結婚を知った訳ですから、正確に15歳であったかも不明の筈。おそらく、詩人として語感の方を優先したと解する方が自然ではないでしょうか。

「小焼け」とは?

夕日が沈んで暗くなった後に、もう一度夕焼けみたいに赤く光る現象と一般的に言われています。
また、「夕焼け」と並べて語調を整えただけと言う説もあります。
広辞苑等には記載はありません。


作者が「負われて」いたのは母か「姐や」か?

この件は研究者間でも長く議論されてきましたが、次に示す作者自身の文章が「発見」されたことで今日、ほぼ決着がついています。
この文章は日本図書センターから刊行された三木露風全集(1982 ~1984年) にも収録されていなかったものでした。
それは、当時トンボのマークを商標としていた繊維総合商社モリリン株式会社(旧森林株式会社)が、その商報に、1954(昭和29)年2月から48回に亘って連載された各界の知名人の蜻蛉についての随筆の中にありました。
商社のPR誌ですから、当時の文芸関係者主体の全集編纂委員の先生方が見落としてしまったのも無理ない話です。
以下、1959(昭和34) 年7月15日号掲載の随筆「赤とんぼのこと」より抜粋
(なお、冒頭画像の下の詩は、この時の自筆原稿の漢字仮名遣いに依っています。ルビはついていません)

*****************
これは、私の小さい時のおもいでである。「赤とんぼ」を、作ったのは大正十年で、處は、北海道函館附近のトラピスト修道院に於いてであった。或日午後四時頃に、窓の外を見て、ふと眼についたのは、赤とんぼであった。静かな空気と光の中に、竿の先に、じっととまっているのであった。それが、かなり長い間、飛び去ろうとしない。私は、それを見ていた。後に、「赤とんぼ」を作ったのである。関係のある『樫の實』に発表した。
家で頼んだ子守娘がいた。その娘が、私を負うていた。西の山の上に、夕焼していた。草の廣場に、赤とんぼが飛んでいた。それを負われてゐる私は見た。そのことをおぼえている。北海道で、赤とんぼを見て、思いだしたことである。
大分大きくなったので、子守娘は、里へ歸った。ちらと聞いたのは、嫁に行ったということである。山の畑というのは、私の家の北の方の畑である。
故郷で見た赤とんぼに就いて云うと、あれから何年もたって、小学校へ行くようになり、通学したが、尋常小学校への道では見なかったが、高等小学校へ進んでからの通学の道では、あれは何という赤いきれいなとんぼだろうと、思ったことである。
******************

なお、この全文と自筆原稿はこちらで確認可能。
Pippo-Jp.com 「とんぼ随想」
上記サイトは日本初の本格的自主的コンサート企画団体として25年間活動した「スタジオ・ルンデ」を母体としたグループによる生活文化総合ネット。

更に、1937(昭和12) 年に日本蓄音器商会から発行された「日本童謡全集」の中でも、作者は同様のコメントを行ってます。

******************
私の作った童謡 ”赤とんぼ” は、なつかしい心持から書いた。
ふりかえって見て、幼い時の自己をいとおしむという気持ちであった。
姐やとあるのは、子守娘のことである。
私の子守娘が、私を背に負うて広場で遊んでいた。
その時、私が背の上で見たのが、赤とんぼである。
******************

「お里のたより」とは何か、誰の里か、誰からのたよりか?

「お里」について、先の文章で作者は「姐や」の里であることを示しています。
私も「姐や」は「結婚するので子守をやめて」里へ帰った、と当初思い込んでいました。
しかし、上記文章によれば、「姐や」は先に里へ帰され、その後結婚したことになります。
里へ帰ってから彼女が手紙か何か書いて寄越したかは不明のままですが、手紙を継続的に書いていたなら嫁入りの報告も当然する筈…
また、子守奉公中の彼女へ里から便りがあり、それを彼女が露風に(問わず語りに)話していたとも言う可能性もありますが、現実的には守り子とそういう会話が成立つか、赤子がそのことを覚えているかと言う疑問は残ります。
また、一部には子守娘が母親の動静を伝えてくれた(里のたより)と言う解釈もあります。
つまり、仲介役がいなくなり、母の様子が分からなくなったと嘆いている、と。
本解釈は上の解釈より、更に現実味に乏しいかな、と私自身は感じています。
また、何が何でも「露風は母を恋しがっていた」的図式に当て嵌めうようと言う作為すら感じます。

今の私は、おぶってくれた「姐や」を懐かしく思い出したが、「そう言えば、里へ帰ってからは絶えて連絡はないなあ」位の意味に、この部分を受け留めています。
なお、「たより」は「頼り」の掛詞でもあると言う解釈もあります。
(そこから後記する「桑摘み母親同行説」へ繋がるのですが)

桑の実を一緒に摘んだのは母か「姐や」か?

これについて作者は一言も触れていません。
まずは、桑の実の解説を――
c0163399_13465068.jpg桑の実、どどめ、マルベリー (Mulberry) と呼ばれ、地方によっては桑酒として果実酒の原料となる。その果実は甘酸っぱく、美味であり、高い抗酸化作用で知られる色素・アントシアニンをはじめとする、ポリフェノールを多く含有する。旬は4月~5月である。キイチゴの実を細長くしたような姿で、赤黒くなる。
(Wikipedia より)

桑の実摘みについては、文中どこにも出てこない「母」が同行したとする研究者は意外に多く、ひょっとすると多数説かも知れません。
母カタが「子どものとき、裏の畑に桑の実をとりに行った時のことを覚えていて作った詩です」と回想していること、
また、露風7歳の作と言われる「桑の実の黒きをかぞへ日数経る」の句は当時離縁して里へ帰った母を待つ句とする解釈も、これを補強するものです。

確かに「1日中赤子を背負う」と言う労働は謂わば「守り子」の専業で、愛の有無を問わず、裕福な家の母親には求められてはいませんでした。しかし、桑の実摘みとなると「母と子の触れ合いの時間」であっても不思議はありません。

母親説の代表として、和田典子による「三木露風―赤とんぼの情景」)(神戸新聞総合出版センター 1999年)。

この詩のテーマは何か

c0163399_1803656.jpg前記、和田女史の著書は、この詩が掲載された順に異同=推敲の跡を丁寧且つ詳細にフォローし、字句、漢字仮名遣いを含め、その意義を分析しています。それは示唆に富むもので、ご一読をお勧めします。

因みに、本作品は、当初「赤蜻蛉」として児童教育誌「樫の實」(1921年)掲載。
次いで、語句を一部入替えて、童謡集『眞珠島』(アルス 1921年)に収録。
その後、更に改訂して「赤とんぼ」と改題、童謡詩人叢書―3―三木露風著『小鳥の友』(新潮社 1926年)に収録。山田耕筰が曲を付けたのは、このヴァージョンです。

女史は、これらの異同の分析を通して、「母と言う字を一字も使わずに『母恋いの思い』を歌い上げ」た述べ、推敲の過程を通じて、更に大きな主題として『赤とんぼのいる情景を通して描かれる、幼年から少年への成長』に改作され」たとし、象徴詩人として頂点に立った露風の万感の思いを込めて作られた作品は、これまでの作品の積み重ねの頂点にあったと考えてもよいだろう」と断言しています。

その他、フランスの作家、マルセル・プルーストValentin-Louis- Georges-Eugène-Marcel Proust (1871 - 1922)の「失われた時を求めて」(1913 - 1927)からの影響を指摘する声もあります。

参考までに記すと…
(そこだけ有名になった節もある)「紅茶に浸したマドレーヌの味をきっかけに、コンブレーに滞在していた頃にまったく同じ経験をしたことをふいに思い出」した「語り手」は、そこから強烈な幸福感とともに鮮明な記憶と印象が次々に甦り、語り始めます。
「無意志的記憶」を重要なツールとして展開される、今や20世紀を代表する作品との評価を受けるに至った、この長大な小説は、「語り手」が「時と記憶を主題とする長大な小説」を書くことを予告し、その幕を閉じるものです。


私は、この詩の創作過程を含め、その内容と構造、テーマを次のように理解しています。

作者は、詩壇の頂点を極めた後、思うところもあり、また修道院長から請われ、北海道の修道院で過ごすこととなります。
ある日、修道院の窓から偶然見かけた赤とんぼの姿に、12歳の頃に作った俳句(注2)を思い出します。
そこを起点(4番)に、幼い日々のことが、特に母に代わって面倒を見てくれた「姐や」との思い出が走馬灯の様に過ります。
具体的には、1番は2~3歳の赤子期、「姐や」におぶられて見た赤とんぼ。2番は4~6歳頃の幼児期、母がまだ家にいた時期の桑摘みの思い出。3番は10歳頃、既に母は家を出ており、「姐や」までも出て行ってしまった寂しさ。桑摘みに同行したのが母か「姐や」かは定かでありませんが、前後の繋がりから「姐や」の可能性も否定できないと思っています。
作者は眼前に止まっているトンボの赤から、真っ赤な夕方の空とそこを飛び交う赤とんぼを思い浮かべ、更に桑の実の赤と…色彩的な連想による視覚的記憶シーンが次々にフラッシュバックし、そのピークに、可愛がってくれた「姐や」がいなくなり、一人ぼっちになった自分とその時の孤独感でした。
それは、まるで、目の前の微動だにせず竿にとまっている赤とんぼのよう…
(それを見つめている12歳の自分のようでもあり…)

註:( )内は、あくまで、露風の伝記的事実を前提としている解釈であり、何の予備知識もないまま読む大半の方には不要な部分ではあります。

と言うことで、私の解釈は女史のそれとは異なります。
勿論、女史の解釈も一つの見解です。

因みに、上に見た様に、作者は発表の機会ある都度、この作品の句読点や漢字仮名遣いを変化させ続けますが、女史の作業・検証は「小鳥の友」までで、その後はフォローしていません。

私は単純に碑に彫る原稿は、その特性上、ルビや句読点は省いたと理解しています。
(因みに、前記1940年の「ふるさとの」の詩碑でも、同様です。)
1964年12月29日の輪禍で不慮の死を遂げた三木露風は、除幕式(1965年5月28日 ナカ夫人等臨席)には出席できませんでしたが、前年5月には詩碑の為に、この詩を清書した直筆原稿を届けています。
句読点以外は、モリリン商報に自作解説を掲載(1959) したものと漢字仮名遣いは一致していますので、ここで使われた漢字仮名遣いこそが、この時点での詩人の最終到達点と解釈しました。
勿論「最終」と言っても、あくまで、その時点でのこと。
不慮の死がなければ、そして機会があれば、更に推敲した可能性もあると思っています。
それが謂わば「表現者の宿命」だからです。
それはともかく、1959年版では、1番と4番の「夕焼け、小焼けの、赤とんぼ」の表記が一致しています。
1、4番の仮名遣いを別表記とした「小鳥の友」(1926) 版での使い分けを、成長を象徴したものとする女史の説は、あまりに技巧的且つこの変更を説明出来ないので、私は賛同出来ないのです。
また、あまりに伝記的事実(幼くして母と別れた)による先入観(生涯、母を恋うる気持ちが強かった)が、字句を超えた解釈を生む源泉となっているのではないかと言う疑念も消えません。
勿論、作者自身が自作へのアプローチ・解釈を変えた可能性も私は否定はしません。

【 Part2、3について 】

詩の解釈論に時間とスペースを掛け過ぎたかも知れません。
Part2では、北海道のトラピスト修道院へ赴任した露風と、本作品誕生の経緯、
Part3では、山田耕筰の生涯とこの曲の作曲の背景について、カヴァーと共に見ていこうと思っています。



注1) 各種童謡歌曲投票・選定
日本童謡の会 「好きな童謡」5800件 2003年 
2位以下の歌:
②故郷(ふるさと)、③赤い靴、④みかんの花咲く丘、⑤夕焼小焼、⑥7つの子、⑦ぞうさん、⑧月の沙漠、⑨しゃぼん玉、⑩里の秋
当時、平井堅が歌って大ヒットした「大きな古時計」は、10位に当たる票を集めたが、米国作品のため除外。

NHK 「日本のうた・ふるさとのうた」657千件 1989年 選考は得票数+選定諮問委員会の選定
2位以下の歌:
②故郷(ふるさと)、③夕焼小焼、④朧月夜、⑤月の沙漠、⑥みかんの花咲く丘、⑦荒城の月、⑧7つの子、⑨春の小川、⑩浜辺の歌

龍野市 「あなたの好きな童謡」 1987年
「里の秋」「夕焼小焼」「7つの子」「小さい秋みつけた」「みかんの花咲く丘」「月の沙漠」「叱られて」

文化庁・日本PTA全国協議会 「親子で歌いつごう・日本の歌百選」 2006年 投票+選考委員会
正確には101曲選考

朝日新聞 「歌い継いでいきたい童謡・唱歌」 4116件 2010年
上記「親子で歌いつごう 日本の歌百選」を参考に84曲の選択肢を用意し、1人10曲まで投票。    
2位以下の歌:
②小さい秋みつけた、③仰げば尊し、④荒城の月、⑤夕焼小焼、⑥早春賦、⑦大きな古時計、⑧里の秋、⑨かあさんの歌、⑩故郷(ふるさと)

注2) 12歳の頃の俳句
赤蜻蛉 とまつてゐるよ 竿の先

伊水(後、龍野)高等小学校に着任した新任教師松本南楼の感化を受けて作ったと言われる作品。
1901(明治34) 年、高等小学校2年生の頃の作品です。
全集には「小学校時代の作品」も一部収録されていますが、この作品自体は個別には収録されていません。

しかし、全集1巻付録の関係者の随筆では、生前のナカ夫人が、この句を引用し、「その時の先生にお見せしたら大変ほめられ、それから句を作り、和歌を作り、詩を作るようになり、生涯を詩を作り、詩文を書いて終わった」と書いています。
露風自身もこの句については、「今思ふに此句は私の童心を示したものである」(三木露風詩集第1巻の「あとがき」(1926年))と言及しています。
(だから、重複を避ける方針の全集には個別には収録されていないのかも知れません)

因みに、全集最終巻の奥書は1974(昭和49) 年4月20日、その刊行前日にナカ夫人は乳癌で亡くなりました。16日、病床の枕元に1冊だけ早く製本されて届けられた最終巻(第3巻)を夫人は撫でて喜んだと言われています。


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by Eiji-Yokota | 2010-03-08 20:01 | SONG | Comments(1)
Commented by 田舎暮らし at 2017-03-24 10:49 x
私は昭和34年に露風が書いた説明文を読んで次のように考えるようになりました。
姐やは子守娘だと書いています。その子守娘は実母「碧川かた」さんのことを比喩表現したのではないかと思います。その理由は
①「大分大きくなり子守娘は里に帰りました」と説明しているからです。これは露風が6歳の時、母親は離婚して故郷の鳥取に帰ってしまったことを言っているのだと思います。姐やが嫁に行くので里に帰ったのなら、大分大きくなりと書く必要はないと思うからです。大切な部分は次の説明です。
②「ちらと聞いたのは嫁に行ったとのことです」ちらと聞いたという表現が何とも切ない気持ちの表れじゃないでしょうか?→15で姐やは嫁に行きお里の便りもたえはてた。⇒これは露風が15歳の時に母親が再婚したので母親からの便りが来なくなったということを表現しているのだと思います。露風は詩は自分を主人公に書くものだと述べています。15歳の姐やのお里からの便りだと主人公が姐やになってしまうからです。
昭和34年に露風が赤とんぼの説明文を書いた時、母親の碧川かたさんは健在でした。かたさんは子守娘は自分のことを言っていると直ぐに分かったはずです。生涯慕っていた生き別れになった母親のことを、露風が6歳の時に離婚して故郷の鳥取に帰ってしまったことや、露風が15歳になった時に母親が再婚して便りが来なくなったことを慕っている母親が生きているのにダイレクトに書くでしょうか? 露風が母親のことを子守娘に例えたのは母親への愛情の表れであったものと推察します。
昭和34年に書いた露風の赤とんぼ説明文を読んで母親の碧川かたさんは昭和36年に次の詩を書いています。「よき子供生まるるといひし祖父君に聞かせたいと思う赤とんぼのうた」。
露風は生き別れになった母親のことを生涯慕っていました。そのことを夏姫や山づたいなどの詩に書いています。
昭和37年に母親の碧川かたさんが亡くなった通夜の晩に、露風は碧川道夫さん(再婚した碧川さんの長男)にお願いして母親の横で添寝させて欲しいとお願いして、母親と生き別れてから70年近く経った時に添寝を実現させたのです。夏姫では「吾や七つ母と添寝の夢や夢 十とせは情け知らずに過ぎぬ」と詠んでいます。
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