Naomi's Choice 小柳有美の歌った歌
by Eiji-Yokota
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
リンク
お気に入りブログ
前田画楽堂本舗
最新の記事
Instant Karma!..
at 2016-01-10 18:20
Out There! Ja..
at 2013-12-29 00:32
Out There! J..
at 2013-11-24 16:56
Out There! J..
at 2013-11-20 01:11
銀の琴 op.7 in TO..
at 2013-10-04 19:30
東京倶楽部(水道橋店)にて
at 2013-08-25 11:16
SANTANA Second..
at 2013-03-23 16:55
A TIME TO KEEP..
at 2013-03-02 19:00
Stardust ..
at 2012-11-25 13:57
Stardust ..
at 2012-10-08 20:21
記事ランキング
ブログジャンル
カテゴリ
全体
ご挨拶・このブログの使い方
INDEX・SONGS
INDEX・LIVE
INDEX・WHO'S WHO
SONG
SETLIST
WHO'S WHO
CD
口上
未分類
タグ
(21)
(16)
(12)
(11)
(9)
(9)
(7)
(6)
(5)
(4)
(4)
(3)
(2)
(2)
(2)
(1)
(1)
(1)
(1)
(1)
最新のコメント
長文のコメント、ありがと..
by Eiji-Yokota at 01:32
私は昭和34年に露風が書..
by 田舎暮らし at 10:49
コメントありがとうござい..
by Eiji-Yokota at 11:00
コメントありがとうござい..
by Eiji-Yokota at 06:06
記事から7年目のコメント..
by as at 11:48
お久しぶりです。時々、貴..
by Eiji-Yokota at 21:11
お久しぶりです。 ジョ..
by shintaromaeda at 18:50
素晴らしい。 そうだっ..
by びっくりぽん at 18:19
30分にボーンとなる時計..
by 生後313ヶ月 at 23:07
2014年8月~9月大き..
by 生後313ヶ月 at 23:02
ようこそ、Naomi's..
by Eiji-Yokota at 05:59
"Everytime W..
by 通りすがり at 12:14
大阪も最高でした♪
by motoharublues at 13:11
勉強に成りましたー。Yo..
by エディまーくん at 16:38
味のあるかっこいいジャケ..
by motoharublues at 22:27
はじめまして長田元春とい..
by motoharublues at 22:54
コメントありがとうござい..
by Eiji at 10:38
トラックバックを頂きまし..
by わーきんぐまざー at 22:52
YES but it'..
by Eiji-yokota at 20:31
I would like..
by ziggy at 21:14
以前の記事
2016年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 08月
2013年 03月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 03月
2007年 12月
ブログパーツ
ファン
画像一覧


正調博多節 番外編 その源流を求めて

++++++++++++++++++++++++++++++++++++
この度の「東日本大震災」におきまして、亡くなられた方々とご遺族の皆さまに対しまして深くお悔みを申し上げますとともに、被害にあわれた皆様に心からお見舞い申し上げます。
一日も早い復旧復興をお祈り申し上げます。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++
c0163399_21504278.jpg

   博多帯締め 筑前絞り 
             歩む姿が 柳腰

Naomi's Choice へようこそ。

今回は番外編として「正調博多節」を巡る「博多帯」「筑前絞り」及び、この唄のオリジナルを求める旅にお付き合い願います。

私は「正調博多節」改訂版Part1にて、通説に疑問を呈して、一つの仮説を提示しました。
改めて、私の仮説を若干整理し直して、お示ししましょう。
即ち、
・江戸時代後期に現在の正調博多節の原型となったものが出来上がった。
・それらは様々に形を変えて全国に流布していった。
・その一が中国地方に伝播し、所謂、石見「博多節」=「ドッコイショ」と言う形で門付け芸として発展し、明治中期には全国的に有名となった。
・一方、博多にも別の流れが伝わっていた。それらは、清元節の師匠である延玉等によって、より洗練された節回しとなり明治後期、博多の花柳界等一部では歌われていた。
・先の「ドッコイショ」が全国的に流行する中、「博多」の名を冠した唄が、下卑た門付け歌であってはならないと、地元の有志による「正調博多節」プロジェクトとも言うべきものが立ち上げられた。
・旋律は延玉等による節回しを元にプロジェクト・メンバーによって形を整えられ、歌詞は広く一般に募集し、大正10(1921)年6月試演会で披露された。

と言うものでした。



若干、上記を補足すれば、
・一介の芸妓から戦後に水茶屋券番(通常は「検番」と表記。「券番」は博多独自表記。芸妓と客の連絡役を担い、芸妓の所属する置屋の取りまとめを行い、芸妓の教育もまとめて行うところも多い)を復興して代表となり、昭和44年には複数に分かれた券番を統合して博多券番を設立し、初代代表となった小野ツル(1902 - 芸妓時代の名は「奴」)の評伝である角田嘉久「或る馬賊芸者・伝 『小野ツル女』聞き書き」(1980年 創思社)にも彼女が大正9年の上京の際に、以前から博多の花柳界で歌われていた「博多節」を初めて人前で歌うエピソードが出てきます。
このことからも、この唄が大正10年になってから初めて作られたものではなく、地元の花柳界では既に知られた存在であったことが分かります。
・全国への伝播、特に中国地方へ伝わった経緯に関しては明治中期の岡本一派による源氏節の興行が一役買ったと言う証言もありました。
・江戸中期~後期の「原型」の一部として、詳細は不明ながら「世の中おもしろ節」「実(げ)におもしろや節」等の存在の指摘もありました。
・更に遡って、その源流を文化年間の博多商人による歌舞伎への売込みの際に、4代目鶴屋南北によって作られた囃子言葉が、その源流とする説もありました。しかし、その具体的エビデンスは明らかではありませんでした。

私は、この南北による謂わば「CMソング説」に個人的に魅かれて、その真偽を確かめたいと思うようになりました。
この説が成立するならば、「ドッコイショ」も「天狗様」(山口の俗謡、「水券のお秀」のレパートリーでもあり、正調博多節の元唄とする説もある)も「正調博多節」も実は皆ここから派生したものと言う説明が容易になります。
こうして、私の探索が始まりました。

(冒頭の画像は、今回、私の「探索」に協力いただいた福岡の西村織物にあるディスプレイ。本文で触れる「助六」の中の「博多帯」についての科白を屏風の上に再現したもので、同社の広い敷地内にある直営店「献上館」の踊り場に鎮座して訪問客を迎えています)

さて、博多織の最上級品は「献上博多」と呼ばれています。
これは関ヶ原の戦功で筑前藩主となった黒田長政が幕府に毎年3月に博多織を献上したことから名付けられたものです。
c0163399_23405882.jpg

(上画像は博多のきれいどころが博多帯で博多の町を練り歩く「献上道中」のH22年のポスター。独鈷《どっこ》、華皿《はなざら》と呼ばれる、真言宗の法器を図案化した模様を組み合わせた独特の献上柄。結び方も、一般的な「太鼓結び」でなく、芸妓衆の特徴的な「やなぎ帯(中だらり)」が見てとれます)

江戸中期の博多は、原料である白糸の調達も京・堺、更には長崎の後塵を拝し、黒田家は地方の名産品として生産奨励することもなく、せいぜい貴重品として献上する分を確保すれば良いと言うスタンスであったかのようで、博多の織物業者は西陣織等と比較しても小資本で細々と経営していました。
知名度も今一、その割には高い、と言うことで江戸への売込みは苦労の連続でした。
そこで改訂版Part1で紹介した、ある博多商人が歌舞伎で博多織を宣伝するよう団十郎や南北へアプローチします。
現在、このエピソードを巡り、下記2つの異なる「商人名、歌舞伎の演目(外題)」がネット上等で見かけられます。

1.「山崎兵衛・夏祭浪花鑑」
Wikipediaによる「博多織」の記事(2010.11.20 更新版)が典型的なもので、ネット上ではこれを引用・孫引きしているものが結構散見されます。Wikipediaには具体的な出典は明示ありません。
岡崎暘「献上と博多織の歴史」(繊維と工業 2005年 Vol.61-No.10)は商人名は山崎藤兵衛、演目は「夏祭り」としています。

2.「山崎兵衛・助六由縁江戸桜」
ネットでは本ブログ始め少数。出版物では、博多織工業組合「博多織史」(2008年 非売品)、杉原実「博多織史」(1964年 校倉書房/増補改訂版 1996年 葦書房)、柳孟直「ハカタ巷談3」(1978年 博文舎)、「筑紫史談」29集(1923年)掲載の伊東尾四郎「山崎藤兵衛事蹟」他。エビデンスも多数。

【 商人名について 】
各種資料から判断して、Wikipediaのそれは単純な誤記であると思われます。
前記Wikipediaが唯一「参考資料」として明示しているものが先の杉原実「博多織史」ですが、ここでも山崎藤兵衛名が表記されている、当時の看板を含め様々な客観的資料が示されています。
Wikipediaは私も便利で重宝しており、そのことはブログの「はじめに」でも明示していますが、同情報は、もともと匿名情報であり、特に学術的なデータでは引用に当たっては出典等を慎重に確認することが求められます。

山崎藤兵衛について
1787 - 1859 72歳 今の福岡県遠賀郡柏原浦生まれ、吉田與次兵衛の子、幼名は與一、後、春雄。
父の代より升(桝)屋と称し清兵衛と名乗る。16歳の頃、伊万里の陶器を仕入れ、東国諸国に行商。
1809年 22歳で蝦夷地に渡り、松前に店を開く。
1814年 27歳で博多に戻り、博多木綿(博多絞り)や博多織を江戸で行商。
なかなか思うように売れず、ツテを辿って当時人気絶頂だった7代目市川団十郎(1791 - 1859 / 団十郎時代:1800 - 1832年)へ売込み、舞台で採り上げてもらい拡販に成功。詳細は後記。
1819年、その商才を見込まれ、亀屋こと山崎家の養子となり、藤兵衛を名乗る。
これらの詳細については彼自身の自伝「蝶夢緑」(1825、1829年)に記されていると各種文献にありますが、現時点では私はその原本の存在自体を確認出来ていません。
因みに、伊東尾四郎が「山崎藤兵衛事蹟」に、原本を「長孫山崎弘君に割愛したり」と記していますが、それを最後に、その存在の確認が取れなくなっているようです。東筑紫短期大学の玉井政雄教授は「蝶夢緑ー山崎藤兵衛小伝」(「日本及日本人」1976年5月号)で、同書の所在について福岡の公的機関や藤兵衛の子孫にまで確認したが、先の山崎弘の正体すら掴めず、発見出来なかったと書いています。
 

【 演目(外題)について 】

・夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)
これはもともと人形浄瑠璃が原作の所謂「上方狂言」です。
つまり、主として京都・大阪で演じられていたものです。
とは言え、江戸の9代目市川団十郎(1838 - 1903/ 団十郎時代:1855 - 1903 )等も演じた記録がありますが、この場合、時代的にはもう少し後になります。

ただ、Wikipediaでは触れていませんが、この作品の「書き換え狂言」として江戸で上演されたものに「謎帯一寸徳兵衛(なぞのおびちょっととくべえ)」があります。
これは文字通り鶴屋南北が1811年に前記作品を書き直したもので、その意味では演目名が異なっているだけ、南北の手によると言う点では符合します。
厳密には、彼はこの作品執筆時点は「南北」襲名前で「勝俵蔵(かつひょうぞう)」と名乗っていましたが。
しかし徹頭徹尾「悪事」を貫く浪人団七のアンチ・ヒーロー振りが圧巻のこの作品の、どこで博多帯を宣伝したのやら…
c0163399_12421481.jpg

・助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)
あらすじ等詳細は改訂版Part1を(←ここをクリック)
先の伊東尾四郎「山崎藤兵衛事蹟」は蝶夢緑からの引用として、助六への売り込みの経緯が描かれています。博多織工業組合の企画・発行による先の「博多織史」(非売品。大きな公共図書館等で確認ください)でも、「秘話」として助六のエピソードが採り上げられていますので、業界としてお墨付きを与えた形です。
ここでは、博多織PR作戦が「助六」で行われたと言う前提で、以下、その中身を見てみましょう。

【 幻の助六の科白 博多織のPR 】

先の「山崎藤兵衛事蹟」に、蝶夢録からの引用として、南北により加筆されたとする科白が記載されています。冒頭画像の屏風にその内容を再現したものです。
我々もここでその一部を見てみましょう。

(舞台は吉原。市川団十郎演じる主役の助六は博多萌黄に黒の独鈷・白の華皿の献上柄の反物、羽織は黒に白の華皿4本立、帯は浅黄に紫の三升格子。岩井半四郎演じる吉原一の花魁で助六の恋人、揚巻は本紫と黒縞の博多織で登場。
以下、芸者春吉、小吉それに主人公助六の会話、なお仮名遣い・漢字等は現代風に適宜修正)
春吉:
助さんえ。近頃は、いつでも博多をよく着なさへますが誠にいいねえ。それに何もかも博多ばかりは何ぞ訳でもありますかえ。
助六:
これはねえ、母じゃ人が、わしが吉原ばかり通うゆえ、道筋で悪事災難を逃がるるようにと、わざと博多に注文したのさ。
(以下、博多織の由来が語られ… )
この博多は唐糸だから誠に強くて、いつまでしても切るるということはねえ。そこで揚巻と二人が仲、いつまでも切れぬようにということよ。おぬしたちも博多をしめるなら、このごろ筑前の御屋敷に博多の清兵衛という人が来ているから買ってしめるがいい。
(ここで、春吉・小吉が清兵衛から教わった唐人踊りを踊り、二人が身に着けた「博多絞り」が露わになると言う構成だったようです)

ま、宣伝も、ここまで徹底すれば見事なものです。
たしかに「やり過ぎ」の感なきにしもあらず、ですが。
当然かもしれませんが、現在は、この科白・やりとりは演じられていません。
ただ、「助六」のオリジナルはこのエピソードの更に百年以上前に作られたもので、それぞれの時代に応じて、また役者に合わせて、都度書き直され続けています。
が、そもそも、南北がこの作品に手を入れていたこと自体については、私は確認する術を持ち合わせていません。
南北と団十郎は大ヒット作「東海道四谷怪談」始め、多くの作品を協働して作り上げていたことは間違いないのですが…。
改訂版Part1で記したように、「博多帯締め筑前絞り」の囃子言葉がこの場で演じられたとする説がありますが、これも現在の舞台では確認出来ません。
歌舞伎の伴奏音楽としては、浄瑠璃から発展した豊後節系の一中節、清元節等が大半を占めますが、成田屋=市川宗家が演じる助六のお囃子だけは半太夫節系の河東節(十寸見河東が創始した浄瑠璃。豪気でいなせな語り口が特徴)と決まっています。
♫ 鐘は上野か浅草に… と言うやつです。
しかし、それらの現在の演奏を聴いてもお目当てのお囃子は聞けません。
(例えば、「古曲の今」(2006年 古曲会)に収録されている「助六」等)

ところで、先の「博多織史」の著者で経済学者の杉原実は、「藤堂藩が藩内の木綿織物亀甲縞を売り出した苦心談の中に全く同じ形で二代目団十郎が登場してくる」として、このエピソードを「自身の江戸進出時代の苦心を名優の名を借りて面白おかしく語った物語に過ぎない」とその信憑性に疑問を呈しています。
私は、「似た発想・エピソード」があるのはむしろ自然なことで、そのこと(藤堂藩のエピソード)を以って、この話の存在自体を全否定するのは余りに忍び難く、まだ一縷の望みを託してはいるのですが…

【 幻の筑前絞り 】

まず、「絞り」についての説明を。

衣料等の「染色」の技法の一つ。
布の一部を縛るなどの方法で圧力をかけた上で染液に浸して染料が染み込まないようにすることで模様を作り出す模様染め技法。
名高い「京鹿の子」絞りはその頂点に立つものとして今も多くの人を魅了しています。
これら絹を括った高級なものに対し、江戸時代後期には地方でも庶民向けの独自の絞りが発達します。これら地方(じかた)絞りは、多くは木綿絞りで、藍染が主体でした。

「西の『筑前絞り』『出雲絞り』、東の『横手絞り』『浅舞絞り』『白根絞り』などに高度な技術が伝わり定着しました。」
濱幸子「日本の文様」)

しかし、このように唄にまで歌われた「筑前絞り」ですが、現在私達は目にすることが出来ません。
福岡県では「経済産業大臣の指定」に基づき、「その高度な匠の技と伝統に育まれた優れた」「伝統的工芸品」として現在7つの産地と工芸品を指定しています。
博多人形や博多織は当然その中に含まれています。
私は先日帰郷した際、県の関係者に「筑前絞り」及びその現状について質問しました。
誰一人として答えられる人はいませんでした。
辛うじて、現在は廃業し継承者がおらず、伝統工芸指定を取り消された「博多絞り」が嘗て存在していたことだけは確認出来ました。
ただ、この「博多絞り」とこの唄の「筑前絞り」が同じ技法のものかどうかは分かりませんでした。
「博多絞り」は一般的に、木綿の絞り染めで紺地に花柄等を「湯のし」(蒸気を用いて長さや幅を整える為生地を伸ばす手法、光沢を与えることが出来る)で絞り出し、主として浴衣地に使われたと言われています。
先の山崎藤兵衛のエピソードでも、「博多絞り」らしき言葉は出て来るのですが「筑前絞り」と言う言葉自体は見当たりません。
もともと博多織、博多帯については「筑前博多織帯」等の表現もありましたので、その連想・混同で「筑前絞り」と言う言葉が一人歩きしたのでしょうか?
煌びやかに着飾った吉原一の花魁である揚巻の立ち姿の描写として、博多帯の方はなんら問題ありませんが、もし「筑前絞り」が、地方絞りによくある木綿絞りの藍染であったとすれば、やや不釣合・不似合なものと言わざるを得ません。
一方「柳腰」と言う表現は通常「(美人の)細くしなやかな腰つき」を言いますので、女性を現す表現以外には考えられません。(某国の元官房長官によれば外交姿勢の一種にも使われるようですが…)
「この唄は何を歌ったものでしょう」と言う質問を何人かの博多帯の関係者に質問したところ、「芸妓の色っぽい姿を歌ったもの」と言う答えが大方でした。私もそう思っています。
しかし、その着物は、もう少し軽装だったかも知れません。
例えば、浴衣のようなものとか…
c0163399_0311841.jpg
また、ここで言う「絞り」は着物ではなく、帯揚げや帯締め等の帯関係の小物ではないかとの見解もありました。
成程、それならうまく説明出来ます。
尤も、藤兵衛が売込みを図っていたものは博多帯だけでなく「博多絞り」の着物もありました。先の「山崎藤兵衛事蹟」の記載によれば、揚巻は博多織は身に着けていても、博多絞りは着ておらず、博多絞りを身に着けていたのはお付の芸妓です。
「筑前絞り」が、浴衣や軽装なものだとすれば、吉原の花魁の盛装には似合いません。
そうなると、博多帯と「筑前絞り」の両方を歌い込んだ本歌が、本当に「助六」でCMソングとして歌われたかは、素朴な疑問も湧いてます。

左画像は楽天市場で見つけた博多人形ですが、「博多絞り」とタイトルされています。
これで、幻の博多絞りについて、ある程度のイメージはつかめるかも知れません。
関心ある方はクリックください→博多人形 博多絞り 展子作
c0163399_19131881.jpg

c0163399_19185555.jpg
続いて上記は福岡の二鶴堂の「博多の女」のリーフレットから。
この包装の説明文では、「筑前しぼり」と「博多絞り」は同じものとしているようです。右図では(やや見難いかも知れませんが)1個1個の包装を見ると、黄色の部分は前記の博多帯の特有の模様が描かれており、青い部分が筑前絞り部分かと思われます。
因みに最近の同社の「博多の女」HPでは「筑前絞り(博多織り)」となっています。校正ミスではないかと思うのですが…
お求めは→【博多土産】博多の女【20個入り】

さて、少し脱線したものの、勿論「筑前絞り」なるものが「京鹿の子絞り」の様に百家繚乱的精緻さ、艶やかさ、華やかさ、そして立体感に富むものであったとすれば、これまでの推測とは変わってきます。
CMソング説は十分成り立つのでしょう。しかし、なんと言っても、現物が見当たらないことには埒があきません。
c0163399_22262827.jpg
消えた「筑前絞り」を求めて、あれこれ調べる内に、現在の福岡県朝倉市(旧甘木市)の伝統工芸に「甘木絞り」があったことが分かりました。

旧甘木市は、かつて山紫水明の地として知られ、流れる小石原川は当時、日本三大美水にかぞえられ、その水質が染色や綿布の晒しに非常に適した軟水の河川とされてきました。
江戸中期よりこの水の恩恵を受け染色業が発展し、町中に染物屋や綿布問屋が軒を連ね、この地方で染められたものは「甘木染め」と呼ばれる堅牢な染め物として広く知られました。また、「筑前甘木絞り」などの独特の技法も生まれ多くの職人が活躍した、と。
明治10年頃には全国一の絞り生産量を誇るほどで、昭和初期頃までこの地域の郷土産業として栄えていました。
やがて、農業恐慌等の影響で生産されなくなってから半世紀以上が経ち、甘木絞りは浴衣などの消耗品であったため、地元にもわずかにしか残っておらず、一旦は人々記憶の中から失われました。
現在、地元の「甘木絞り保存会」が地道に復興活動を続けています。
(左上画像は今年アーケード撤去が決まっている商店街に別れを惜しみ、「甘木絞り」千枚が市内のアーケード商店街に飾られた光景です。甘木朝倉・観光案内オフィシャル・サイトより)

この「甘木絞り」は、かつて「博多絞り」と区分する為、「筑前甘木絞り」「筑前絞り」と呼ばれていたと謂う情報もあり、注目して色々調べてみました。
しかし、「甘木絞り」が、この唄で歌われている「筑前絞り」と同一のものであるとの確証は現時点では得られませんでした。

【 追記 筑前しぼりと「紺屋のおろく」 】

「筑前しぼり」と「博多帯しめ」の2つを謳い込んだ詩を思い出しました。
北原白秋の「紺屋のおろく」(「思ひ出 抒情小曲集」1911年)
白秋は博多の近く、福岡県柳川(筑後)の出身、この歌は勿論知っていた筈。何より筑後(甘木は間近)で「筑前しぼり」が着用されていた事、及び「筑前絞り」と「博多帯」は別の連で別の衣装と共に歌われている点に注目。白秋の実家の近くには染物屋があり、おろくと言う女性は実在したようです。
高木東六、多田武彦等も付曲していますが、有名なものは桂三吉。
その正体は町田嘉章(佳聲)。民謡研究家にして、このブログでお馴染みの「日本民謡大観」(NHK)の編集者。白秋の「ちゃっきり節」の作曲者でもあります。

にくいあん畜生は紺屋のおろく
猫を擁へて夕日の浜を
知らぬ顔してしゃなしゃなと

にくいあん畜生は筑前しぼり
華奢な指さき濃青に染めて
金の指のちらちらと

にくいあん畜生が薄情な眼つき
黒の前掛 毛繻子か セルか
博多帯しめ からころと

(中略)
潟に陥って死ねばよい
ホンニ ホン二… 

【 最後に 】

結局、分からないことだらけで、私の探索の旅は一向にゴールが見えません。
改訂版Part1を公開してから相当の日が経っていますが、未だにPart2が公開出来ていないのは、この辺りが解明出来ていないことも一因なのです。

しかし、所詮、素人の趣味的「お遊び」に過ぎませんので、分からないからと言って、何時までも引きずるのは得策ではないと考え直しました。
つまり
「ここまでは独力で調べたけど、専門家でもない為、入手出来ない資料も多く、これ以上先に進めません。どなたか良い情報、知恵、知識あるいは誤っている点をご指摘・ご指導をいただけませんでしょうか?」
と呼びかけ、第三者の力を借りる方が早くて確実ではないか、と、ここに「未完成品」乍ら、公開することといたしました。

よろしくお願いします。


・今回、私の旅に付合って下さった方々
(ありがとうございました)

織屋 にしむら  西村織物(株)
福岡県筑紫市紫7-3-5
TEL:092-922-7128
http://www.oriya-nishimura.co.jp/
社長さん、奥様、献上館のスタッフの皆様

アフィリエイトのお知らせ
上記のアルバム、書籍、ビデオ等に関心のある方は、アルバム名をクリックすれば、販売業者のサイトで詳細を確認できます。購入の判断等はご自身の責任でお願いします。
なお、本文末尾に2件の文字広告が掲示されることがありますが、これはブログ運営事業者であるexciteによるもので、当ブログは一切関与しておりません。
[PR]
by Eiji-yokota | 2011-03-29 00:16 | 口上 | Comments(0)
<< He Was Beautifu... 銀の琴 >>