Naomi's Choice 小柳有美の歌った歌
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おてもやん   「熊本甚句」  Part1

- 1890~1900年頃 永田稲 -
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民謡、お座敷唄
日本の民謡としては珍しく、極めて明朗快活でユーモアに溢れ、また言葉遊びも随所に散りばめられ、何と言ってもコミカルでリズミカルです。一種の「戯れ唄(ざれうた)」には違いないのですが、そのユニークさは、凡百の「戯れ唄」の中でも一際抜きんでています。
対極的な内容や調べを持つ「五木の子守唄」と共に熊本民謡の代表格として、全国的な知名度・人気を誇っています。

もともと幕末から明治の花柳界で軽快な「戯れ唄」が流行ります。
「ソオジャオマヘンカ節」あるいは「本調子甚句」(注1)が、それです。
これらに触発され、全国で同時多発的にそれぞれのお国言葉に乗せたものが歌われ、独自に発展を遂げます。
例えば、山形県「酒田甚句」、茨城県「大洗甚句」、石川県「金沢名物」、愛知県「名古屋甚句」、山口県「男なら」、高知県「土佐なまり」(通常「よさこい節」の後に付けて歌われる)等です。
少し形態は違いますが「相撲甚句」も同じ流れから来ていると言われ、一説には、名古屋甚句(尾張甚句)に影響を与えたとも言われています。
さて、この流れの中で熊本に生まれたのが「熊本甚句」。
しかし今やそのオリジナル・タイトルは殆ど忘れられ、冒頭の一句の強烈な響きとインパクトある、その内容(嫁入りしたが…)故に、そちらの方がタイトルとして定着しています。
――「おてもやん」と。

この歌を巡っては、これまで様々な説(注2)が唱えられてきました。
私自身は、永田稲(イネ)によって、友人の(富永)登茂(トモ、通称チモ)との交流の中から作られたと言う説が、最も合理的且つ矛盾なく各種状況を説明し得ると考えています。
その検証は後に行いますが、
以下、この説をベースに、この歌の成り立ちやその後の展開を見ていきましょう。



(冒頭画像は熊本市のHPより、石原昌一作のブロンズ像「おてもやん」。1985年、熊本民踊会25周年記念として制作/市に寄贈。市の目抜き通り花畑町、熊本阪神デパート前のシンボルロード歩道に設置。因みに、熊本中央郵便局前のポストの上にもおてもやんのブロンズ像があります。 )

注1) 本調子甚句
甚句は7775の詩形。「本調子」は三味線の調弦のひとつ
(詳細は「正調博多節」参照)
本調子甚句は、軽快に歌う一種の騒ぎ唄。花街で流行る。

  ♫
  鯛も色々ある
  逢ひ度い見度いに添ひ度い私
  一體全體あなたは
  實にもつたいない

  醉ふた醉た醉た
  五勺の酒に
  一合飮んだらなほ醉ふた
  「さつさ押せ押せ船頭もかこも」
  押せば新潟が近くなる

同様に更に軽快な「二上り」の調弦で歌われたものに「二上り甚句」がある。
一説には、もともと「二上がり甚句」が旋律変化して本調子化したとも。

注2)「おてもやん」を巡る諸説 
本編の「モデル:登茂+作者:イネ」説以外にも
1. ただの戯れ歌。おてもは「お手芋」であり、つくね芋の意。野菜尽くしの戯れ歌
2. 「おても」を肥後勤皇党、「ご亭どん」を孝明天皇に喩えた肥後勤皇党の忍び歌
3. 西南戦争の際に新政府につくか否かを迷った熊本士族をあざ笑った農民の歌
等があります。
詳細はPart2で見ていきます。


【 歌詞の世界 】

全編、熊本弁のオンパレードで、詳細な解説がないと、正確な意味は把握し辛いと思われますが、言葉遊びの面白さもあり、それなりに分かったような気になるから、不思議です。
民謡の常として、演者により歌詞は微妙に異なりますが、ここでは割切って最大公約数的な歌詞を掲げ、その上でPart2で異動の詳細を明らかにしていきましょう。


おてもやん あんたこの頃
嫁入りしたではないかいな
嫁入りしたこたしたばってん
ご亭どんがぐじゃっぺだるけん
まーだ盃ゃせんじゃった
村役 鳶役 肝いり殿
あん人たちの 居らすけんで
後はどうなと きゃーなろたい
川端町つぁん きゃー巡ろい
春日ぼうぶらどんたちゃ
尻ひっぴゃーで 花盛り 花盛り
ピーチクパーチク ひばりの子
玄白なすびの いがいがどん


ひとつ山越え もひとつ山越え あの山越えて
私ゃあんたに 惚れとるばい
惚れとるばってん 言われんたい
追い追い 彼岸も近まれば
若者衆も 寄らんすけん
熊本(くまんどん)の  夜聴聞(よじょもん)参(みゃー)りに
ゆるゆる話も きゃーしゅうたい
男振りには 惚れんばな
煙草入れの 銀金具が
それが 因縁たい
アカチャカベッチャカ チャカチャカチャ

細かい解説はPart2に譲り、ここでは、ごく簡単に概略を説明するに留めます。

1番では、結婚したと言う噂がある「おてもやん」に丁度出会った作者が、彼女にそれを確かめると、「亭主になる人が疱瘡もちなので、まだ固めの杯はしていない」と、全く他人事のように彼女が応えるところが、前半。
後半は言葉遊びで、その中で熊本の界隈の様子が描かれていると言う指摘にとどめます。

2番では、恋をしている女性が登場しますが、その主体が「おてもやん」なのか、作者なのか見解が分かれるところです。私は1・2番とも、全て作者自身の視点で描かれており、恋をしているのは、作者自身だと考えています。
お彼岸に行われる、ありがたい説教が聴ける「夜聴聞参り」は、この辺りの集落が一同に会するもので、男女の出会いの場でもあった様です。この夜に告白しようかなと作者は考えているのです。
外見には惚れないが、煙草入れのセンスに魅かれると言う告白は、わざと悪ぶっていると私は解釈しています。

なお、この唄には3番があり、また別歌詞も存在しますが、それもPart2以下で詳述します。


【 唄の生まれた背景 】
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(上記画像は2007年12月24日、イネが生まれた熊本市古町地区に完成した「おてもやんとイネ」の銅像。緒方信行作)

おてもやんのモデルである登茂(トモ、通称チモ)(1855 - 1935)は、小作農家に生まれました。
氏子札(注3)を作ってもらった明治6年(1873年、18歳)頃には父母を失い(詳細な事情は不明)、7歳年下の登寿(トジュ)と共に近くの料亭で下働きをしていたと考えられています。
小作の子として生まれても、働き手(男)がいなければ小作も続けられず、読み書きも出来ない姉妹に残された生きる手立ては肉体労働だけでした。
当然ながら、登茂の生まれた時代、農民には苗字はありません。

一方、作者の永田稲(イネ)(1865 - 1909)は、肥後藩御用達の味噌醤油屋「糀屋」(ももや)の娘として生まれました。
永田家は町民でありながら、苗字・帯刀・家紋の使用を許された家柄でしたが、明治維新で幕藩体制が崩壊すると共に家業は傾き始めます。
イネは母、辰(タツ)の強い希望により4歳で芸道に入り、琴・三味線・太鼓・長唄・都都逸・常磐津・浄瑠璃・舞踏・歌舞伎等を習得。
明治16年(1883年、18歳)、師匠の芸名を襲名「亀甲屋嵐亀之助」。
女芝居一座を結成、明治28年(1895年、30歳)頃には大阪・名古屋へも巡業したようです。
実家は没落しましたが、母の先見性のおかげでイネは芸で身をたて、熊本に留まらず、博多の地までも弟子をとり、師匠としての道を歩みます。
弟子からは「キチガイ師匠」、周りの子供からは「ピンピンバアサン」と陰口を叩かれていたようですが、そこに真剣に芸に取り組むイネの姿が見て取れます。
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こうした中、料亭で働くトモとそこにレッスンをつけに出張るイネとの間に、出会いと交流が生まれたとしても、なんら不思議ではありません。
生まれた環境も生き方も違い、歳も10歳も離れていた二人でしたが、ウマがあったのでしょう。
二人の友情は、イネが生涯肌身離さず、形見として残していた氏子札の中にイネ自身のものと一緒に登茂のそれが出てきたことからも明らかです。
小山良氏(くまもと人物紀行 おてもやん)(05年 創流出版)は行方不明になったと伝えられるイネの実子(萬吉)をトモが養祖母(厳密には養母の姉)として育てたのではないか、と大胆に推測しています。
トモはこの縁組により富永姓を名乗る訳ですが、登茂姉妹の養子である富永孝(1913 - 1987)こそがイネと貴族院議員であった富永猿雄(1879 - 1940)との間に設けた子(萬吉)であり、それが故に色々不自然な手続きが可能となったと言う仮説を氏は提示しておられるのです。

その孝は、66歳の時、「確信はあったが、うっかりしたことは言えないという気持ちが強かったが、このことを知っているのは自分だけになったので、自分にもしものことがあればいけないから」と、「おてもやんは、私の祖母。色白の美人でした」と公表、1979年2月9日熊本日日新聞夕刊がこれを報じました。
またイネの弟、永田大吉(1870 - 1942)は家が没落した後、出雲市に居住するのですが、熊本に帰郷した際に嘗ての菩提寺の住職等と歓談。その時、この唄のモデルである登茂(大吉はチモと発音したようです)や作者である姉のイネについての話題となり、それが郷土史家の河喜多義忠氏の耳に入り、1975年に地元のミニ新聞「時雨かわら版」(主宰:佐渡資生 66年1月創刊、144号まで毎月11年間続き、一時休刊後、85年8月復刊、90年12月で廃刊)に彼がそれを寄稿したことから、この説が世に出ます。


注3)氏子制度、氏子札
神社信仰を背景に氏神の社を中心として一定地域に住む人達を氏子として共同体が組織されるようになります。
これを明治政府は戸籍制度の補助として活用。誕生した子は神社に参拝させ、守札を得させることとします。これが「氏子札」。親子関係、出生地・年月日、どの神社の氏子であるかが明示されました。但し、明治6(1873)年5月に停止されます。


【 唄が広がっていく過程 】

出来上がった「熊本甚句」は、お座敷歌として熊本のお座敷に広がっていったようです。
しかし、まだまだ全国区とは行きません。
まだインターネットはおろか、ラジオ、TVの放送も始まっていない時代です。

① 五足の靴
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この唄を九州以外のマスメディアとして最初に大きく採り上げ・報じたものは、おそらく与謝野鉄幹等による紀行文「五足の靴」(注4)と思われます。
明治40(1907)年、雑誌「明星」に集った4人の若き詩人達-その中には、「ちんちん千鳥」で採り上げた北原白秋も含まれていましたが-と鉄幹の5人は、福岡、長崎、熊本へと旅に出ます。彼等が交代で匿名執筆した紀行文は東京二六新聞(注5)に8月7日から9月10日迄29回に亘って掲載されました。
五足の靴 (岩波文庫)(2007年 岩波書店)

原文には日付等の記載はありませんが、今日では彼らの日程・旅程はほぼ解明されています。
8月29日掲載分、実際の旅程では8月15日の「画津湖」(江津湖、文中の内容からして、おそらく与謝野鉄幹執筆と思われます)の章に、この唄が出てきます。

阿蘇から一行が熊本へ帰ってくると、鉄幹ゆかりの九州の各新聞社のメンバーが顔を揃えて歓待します。そして市内の江津湖に舟を浮かべ涼をとることになります。
以下、少し長くなりますが、引用してみましょう。

この時某某の二妓は絃を按じて特に肥後の古い土謡を唄い出した。今その一二を録そう。括狐の中の文字は舟中諸氏の註解だ。

 おてもやん(人名)あんた此頃嫁入したでは無いかいな。(以上問語、以下答)
 嫁入したこたしたばツてん(したけれど)ごんじやどんが(夫が)ぐぢやッぺぢやるけん(疱面なる故)まあだ盃きやせんだッた。
 村役、鳶役(消防夫)肝煎どん、あんふとたちの居らすけんで(あの人たちの居られるから)後はどうなッときやあなろたい。(きゃあは接頭語。後の始末は何とかなるであろう。以下の語は一転して景物に叙す)
 きやあばたまッさん曲らうたい。(川端街の方へ曲り行かん)ぼうぶらどんたちや(南瓜どもは)尻ふツぱツて(尻を出して)花ざあかり花ざあかり。
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 一つ山越え、も一つ山越えて、わたしゃあんたに惚れとるばい、惚れとるばツてん(けれど)言はれんばい、村の若い衆が張番しとらすけん。(村の若い男が他村の男に我村の娘の子を奪はれまいと警戒して居る故に)
 追々彼岸も近まれば、くまんどん(熊本)の夜ぢよみよんみやありに、(夜の聴聞参り即ち説教参りに)ゆるゆる話ばきやあ為うたい。
 (以下一転して女より男の容貌に焦れず、その男の豪著な風俗意気に感ずる旨を云ふ)男振には惚れんばな、煙草入の銀金具が夫が因縁たい。
(以下拍子)あかちやか、べツちゃか、ちやかちやかちや。

(以上の引用文章は岩波文庫版による。 但し、繰り返しの「〱」が横書きではうまく出力出来なかったので、囃子言葉の「花盛り」「ちやか」は単純に言葉を重ねた)

先に掲示した歌詞と多少の違いはありますが、ほぼ同内容です。
土謡とあるだけでタイトルの紹介もありませんが、(それ故に私はまだこの唄が「熊本甚句」と呼ばれていた可能性が高いと見ています)おそらく、註解をつけた「舟中諸氏」先の九州各紙のジャーナリスト達でしょうから、熊本の花柳界等や一部のインテリ・数寄者には、この唄は既に知れ渡っていたことが窺えます。
しかし、東京方面、特に一般の人間には殆ど知られていなかったことは、敢えて、ここで全歌詞(おそらく3番はまだ出来ていなかったと思われます)を掲載示したことからも推測出来ます。
残念ながら、この唄についての5人のコメントは残っていませんが、彼らが受けた衝撃の大きさは、やはり全歌詞まるまる紹介した事実に顕れていると思います。
因みに、他の文章でも、5人が即興で作った詩、短歌は多く記録されていますが、民謡で全文収録した例は他にありません。
(福岡の章で、子守唄「ねんねしなされ」や「黒田節」-何故か、ここでは「将進酒」と紹介されていますが、李白の名高い詩を連想したのでしょうか?-いずれも、1番だけの紹介です。もともと短い歌で1番だけが有名と言えば、それまでですが)

② 赤坂小梅
しかし、文章だけでは、この唄の面白さの半分も伝わりません。
この唄が全国的に普及したのは昭和10(1935)年の赤坂小梅(注6)による録音からでした。

イネの従姉妹にあたり、形見を保管していた勇民(いさむ・たみ 1869 - 1951)の子息嘉八(1893 - 1962)は、上京した際、東京の花柳界で、この歌が流行っていることを知ります。
嘉八が近所の時計・蓄音機販売者の組合長である石井平八に、唄を歌いながら、この話を聞かせたところ、石井は興味を示し、熊本の歌をより広く伝えようと、組合員に諮った上で、当時売れっ子だった赤坂小梅に依頼すべく、上京。
服部逸郎編曲による華やかなコロムビアオーケストラの伴奏に乗せ、全編2拍子のアップテンポで、小梅は威勢よく朗らかに一気に3番まで歌い切ります。「オテモヤン (熊本甚句)」(Columbia A434)
レコードは大ヒット、小梅は以後、熊本公演の度に石井宅に挨拶に来たと言われています。
民謡いちばん 赤坂小梅 (2003年 コロンビア)収録
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小梅は筑前(福岡県田川郡川崎町)出身で、堂々としたその体躯から繰り出される、所謂「川筋気質」直伝の小気味良い唄いぶりで、また、一般的に元唄を大衆に受け容れやすくアレンジして人気を博します。
この唄は間違いなく彼女の歌唱により全国区へと上り詰めます。
一方、熊本の花柳界ではオリジナルに比べ情緒に欠けると反発を呼んだという記録が類書に記されています。
昭和10年以前の地元での録音記録は現時点では見出せません。今日確認可能な地元の歴史的音源として「日本民謡大観 九州篇(南部)・北海道篇」(1980年 NHK)に収録されている菊太郎(柴田キク:歌唱)+長八(河上ツネ:三味線)のそれがあります(注7)が、確かに、こちらの方がのんびりしていると言うか、良く言えば「洗練」されたと言うか、そんな感じで歌われています。
歌詞は2番まで。三味線の調弦は本調子。
民謡の常として拍子は微妙に変化しますが、地元では、4拍子(4/4)主体にゆったりと歌うのが主流のようです。勿論、民謡大全で採譜されているように2拍子で歌われることも少なくなかったようです。(もともと、拍子の概念がない民謡で、間際らしい2拍子と4拍子の差ですからね…)
なお、上記音源の録音年月日等データは未詳です。
小梅は紅白歌合戦に4回出演していますが、その内2回でー第4回(1953年)、第6回(1955年)-この唄を歌っています。九州はじめ全国の民謡に通じ、数百曲のレパートリーを持つ彼女が、です。


注4)五足の靴
新聞掲載以後、長く忘れ去れていたのですが、戦後まもなく野田宇太郎により「発掘」され、日本紀行文学全集第5巻(南日本篇)(1960年 修道社)に収録されて以来、今日では日本耽美文学の出発点としての評価が定着しつつあります。

北原白秋は、後にこの旅を、こう総括しています。

四十年の夏、新詩社同人の寛、萬里、勇、正雄、白秋(*)は九州旅行の途次長崎に一泊し、天草に渡り、大江村のカトリックの寺院に目の青い教父(パアテル)と語った。この旅行から何を彼等は齎したか。浪漫的のほしいままな夢想者であった新人、彼等は我ならぬ現実ならぬ空を空とし、旅を旅として陶酔した。中にも北原白秋は「天草雅歌」を、邪宗の「鵠」を、正雄は「黒船」を、また、「長崎ぶり」を、その阿蘭陀船の朱の幻想の帆と載せて、ほほういほほういと帰ってきた。
(明治大正詩史概観 1933年 改造文庫)

(*)寛=与謝野寛(鉄幹)、萬里=平野萬里、勇=吉井勇、正雄=太田正雄(木下杢太郎)、白秋=北原白秋(隆吉)

これらの作品、即ち、北原白秋の詩集『邪宗門』、木下杢太郎の戯曲『南蛮寺門前』等は、広く明治末年~大正期の文壇に「南蛮趣味」の流行をもたらしたとされています。
この「五足の靴」については、例えば、「正調博多節」の記事でも触れた川丈旅館等への宿泊等、当ブログの守備範囲にも色々関係する部分も多く、将来、別途詳述したいと考えています。

注5) 東京二六新聞  「二六新報」
明治26(1893)年10月『二六新報』創刊。
2年後に資金難で休刊、明治33(1900)年復刊。
明治37(1904)年4月『東京二六新聞』、明治42(1909)年12月『二六新報』、大正3(1914)年7月『二六新聞』、同年11月『世界新聞』、大正7(1918)年2月『二六新報』と改題。
これらは主として発行禁止処分との関係により題号変更したもの。個人攻撃や政府攻撃の記事掲載も少なくなく、専ら大衆紙と看做された。
昭和15(1940)年9月 戦時統制により廃刊。
「五足の靴」が連載された時は約5年間の「東京二六新聞」時代だった訳です。

注6) 赤坂小梅
本名:向山(むかやま)コウメ
明治39(1906)年4月20日、福岡県田川郡川崎町生
父:向山権平、母:(旧姓井手口)シナの9人兄姉(三男六女)の末っ子として誕生。40歳という高齢出産の影響もあってか、産後の肥立ちが悪かった母が10月に死去。すぐ上の兄秀吉と共に長姉とせの養女となる。

16歳の時に自ら芸者を志し八幡市(現北九州市八幡東区)の置屋「稲本」に。
通常1年間の芸者修行を3ヶ月でこなすという猛勉強で、1年で芸者デビュー、「梅若」を名乗る。稲本の小倉市(現北九州市小倉北区)移転に伴い、同市旭町の検番「旭検」に所属。小倉に梅若あり、と歌のうまさを喧伝される存在に。
昭和4(1929)年、九州一円の民謡研究のために小倉を訪れていた野口雨情、藤井清水らに認められレコードデビュー。
同6(1931)年、上京して赤坂に移り、藤井清水の命名で赤坂小梅と名乗る。
同8(1933)年、コロムビアから出した『ほんとにそうなら』(久保田宵二作詞、古賀政男作曲)(Columbia 27404)がヒット。

当時、やはり芸者上りの勝太郎と市丸が大変な人気で「市勝時代」などと言われたが、小梅も大変人気を呼び、先の二人と合わせて「鶯芸者の三羽烏」などと言われた。

昭和17(1942)年、出身地福岡県の民謡「黒田節」を初めてレコード化。
たびたびステージや放送で歌い「小梅の黒田節か、黒田節の小梅か」とまで呼ばれ彼女の生涯の代表曲に。

以来、流行歌、端唄、舞踊小唄、そして上記のほか『炭坑節』『そろばん踊り』『小諸馬子唄』など、多くの民謡を吹き込みヒットさせた。NHK紅白歌合戦にも4回出場、その豪放磊落な性格から多くの文化人や政・財界人などに愛され、大衆から支持された。また酒豪でも知られ、恰幅のいい体型が特徴的だった。
彼女は大衆受けするよう節回しも独自に変えており、民謡ではなく、民謡的歌謡曲と言う声もある。
昭和56(1981)年4月、75歳で「感謝引退記念公演」(国立小劇場)。芸能界はもとより、政財界、文化人など各界から400人を超す発起人を集まった。

晩年は民謡の普及や福祉活動に勤しみ、平成4(1992)年1月17日午後7時24分、心不全で千葉県鴨川市の病院で死去。葬儀・告別式は、終の棲家ともなった館山市の安房自然村内不老山能忍寺で執り行われた。戒名「芸鏡院梅月麗峰大姉」。紫綬褒章、勲四等宝冠賞、第10回日本演歌大賞特別功労賞受賞。85歳。

注7) 日本民謡大観
遂にiTunesでの配信が始まったのですね!
この書籍・全集については、「正調博多節」始め、これまでも折に触れて、言及してきましたが、昭和16年から半世紀かけて日本の民謡を集大成した画期的労作・資料集です。読み物としても優れています。平成4年にCD付属で復刻されましたが、現在絶版となっていました。
全2751音源
関心のある方はどうぞ

http://www.nhk-book-music.jp/other/post-42.html    大観の全貌について

http://itunes.apple.com/jp/album/id410530445    「おてもやん」収録


以下
Part2 :歌詞の詳細な解説(諸説の検証)
Part3 :私が作者と信じて疑わない永田稲と言う女性の生き方・考え方について
のラインナップでお送りします。

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by Eiji-yokota | 2011-01-23 00:40 | SONG | Comments(0)
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