Naomi's Choice 小柳有美の歌った歌
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ちんちん千鳥

- 1921年 北原白秋 + 近衛秀麿 他 -
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 ちんちん千鳥の啼く夜さは、
 啼く夜さは、
   硝子戸しめてもまだ寒い、
   まだ寒い。
 
 ちんちん千鳥の啼く聲は、
 啼く聲は、
   燈を消してもまだ消えぬ、
   まだ消えぬ。
 
 ちんちん千鳥は親無いか、
 親無いか、
   夜風に吹かれて川の上、
   川の上。
 
 ちんちん千鳥よお寢らぬか、
 お寢らぬか、
   夜明の明星が早や白む、
   早や白む。

歌には流行り廃りはつきもので、歌はそれ自体生まれ落ちた時代を体現しています。その中にあって、この歌は、現代を生き永らえることは難しい歌かなと私は疑っています。
何故なら、この歌を歌ったり、聴いたことのある人はある年代以上に限られること。
そして何よりも今の若い人の大半は千鳥の啼き声を聴いたことがなく、今後もその数が大きく増加する期待は薄いこと。
したがって、この歌の世界に共感したり、感情移入出来る人の数は限られます。
だから、有美さんが、この歌を採り上げた時は、正直、驚きました。

しかし、本当は、そのような歌の為にこそ「解説」が必要なのかも知れません。

(冒頭の画像は山口仲美さんの「ちんちん千鳥のなく声は (講談社学術文庫)」)




【 千鳥の啼き声 】

ひよ子、鶴乃子と並ぶ古くからの福岡の土産菓子として知られる千鳥饅頭にも、その名が使われているように、また、夏の風物詩「かき氷」等の暖簾に描かれている「波に千鳥」の意匠にも使用される等、かつてチドリは身近な鳥でした。c0163399_9454031.jpg
しかし近時、開発による生息地の破壊、乱獲、植物の植生の変化等により、すっかり見かけることの少なくなった鳥でもあります。

そもそも千鳥の名は「チチチ…」との鳴き声に由来するとも、群れるので「千の鳥」から名付けられたも謂われています。
この歌について個人的な感想を言えば、私は千鳥の声が、どうしても「チンチン」とは聞こえず、ずっと違和感を持っていました。

そして、それについて、最近面白い本に出会いました。

冒頭の画像の山口仲美さんの「ちんちん千鳥のなく声は 」(初版:89年 大修館書店)は、日本文学の変遷の中に鳥の鳴き声を求めるユニークな研究であり、彼女のデビュー作でもあります。
特に千鳥を採り上げた部分は(その後の改稿を経ていますが)最も初期のものに属します。

彼女は、柿本人麻呂等の歌を引いて、その鈴の音を思わせる「チヨチヨ」と言う鳴き声が、万葉人の物思わせる気持をかきたてたとしています。
一方で彼女は鳥の声の表現を、単純に写す「写声」と我々が普段使っている言葉にあてはめて聞く「聞きなし」とに分類。
「チヨチヨ」の鳴き声が「千代に八千代」と意識の上で転換し、古今和歌集以降、「八千代」と鳴く、寿ぎの鳥の位置に収まったとしています。
更に狂言等では、群れて「チリチリ」と鳴きながら飛ぶ様を友や妻を呼ぶ鳥、相手を呼んで鳴き続けているものと受け留め、そして、江戸時代には「チンチン」ととらまえるようになったと解説。

白秋の歌についての彼女のコメント。

高く澄んだチドリの声を思い起こしてみると、金属製の風鈴を思わせる「チンチン」の語が、チドリの声をいかにもよく伝えているように思われる。
白秋は、このチドリの声の感じを、あの詩に込めたかったのではあるまいか。「ちんちん千鳥の啼く夜さは」「ちんちん千鳥の啼く声は」とうたうことによって、背後に、チドリの可憐な鈴のような声の流れることを期待したのではあるまいか。

【 北原白秋と「赤い鳥」人脈 】
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本名:北原隆吉(1885 - 1942)
詩人、童謡作家、歌人 
福岡県南関町に生まれ、柳川市で大きな海産問屋を営む生家で育つ。
幼い頃は「トンカジョン」(方言で「大きな坊ちゃん」の意)と呼ばれていた。
1901(明治34)年 (16歳)、白秋の実家は母屋の一部を残して全焼。
以後、北原家は斜陽となる。
1904(明治37)年 (19歳)、父の反対を押し切り、上京、早稲田大学英文科予科へ入学。
1906(明治39)年、与謝野寛の新詩社に参加、森鴎外や上田敏の評価を得る。
以後、『邪宗門』(明治42年)や『思ひ出』(明治44年)を刊行、詩壇の第一人者として活躍。
1912(明治45)年 「桐の花」事件
 白秋、姦通罪で未決監に収監さる。後、家族の奔走で和解が成立し、告訴取り下げ。
1918(大正7)年3月 鈴木三重吉、児童誌「赤い鳥」創刊。
白秋は創刊から関わり、童謡の創作と応募童謡の選評、地方童謡の蒐集、児童の自由詩の指導などを担う。
1200の童謡の内、代表作を含め、約300編をこの「赤い鳥」時代に発表。
「赤い鳥小鳥」「あわて床屋」「揺籠のうた」「砂山」「ペチカ」「からたちの花」「雨ふり」「待ちぼうけ」「この道」など。
震災直後には目白の三重吉の自宅に疎開したこともありました。
1933(昭和8)年、鈴木三重吉と衝突し「赤い鳥」と絶縁。
(後記、鈴木三重吉の項、参照)


この国民的詩歌人の春秋に富む足跡の詳細をフォローするには、とてもブログのキャパは足りません。
今回はこの童謡を作った頃の白秋に焦点を中てます。
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1921(大正10)年1月号(6巻1号)の「赤い鳥」掲載。
(同年5月刊行の童謡集「兎の電報」に収録)
白秋、35歳。二度の結婚に破れた直後、生活的にも人間関係的にも人生の辛酸を嘗め、ようやく、そこから這い上がりかけており、この年の4月には菊子夫人と(見合)結婚。
この作品は、生活的にも文学的評価上も安定期に入る、直前の作品と言えるかも知れません。

1966(昭和41)年11月 売りに出された白秋の実家を地元で買取り、復元・公開。
当時、私も寄付したのですが、近くにいながら現地を訪れたのは、何年も後のことでした。
中学時代、Rock にいれあげていた私には白秋なんて教科書的でつまらない存在に感じていました。
しかし、童謡以外の作品に直に触れ、また、童謡でも日頃接する機会の少ない作品に触れ、そのパンクな表現・内容に仰天したのを覚えています。
(残念ながら、私は小説家、白秋は評価しません)
幼い頃から慣れ親しみ過ぎて、その凄さを見落としていたことに遅まきながら気付きました。
よくよく歴史を紐解けば、「赤い鳥」や白秋達の童謡運動は、類型的で上からの押し付け的また西洋音楽そのままの文部省唱歌等に矛先を向け、そのアンチテーゼとして、出発したのものでした。
ジョン・レノンがやがて正史に取り込まれたように、白秋達の活動も一足先に教科書に採用されていたと言う訳です。

別に私はここでことさら故人のスキャンダルを暴くつもりはありませんが、生身の人間として矛盾をさらけ出し、悩み、傷つき、もがいていた筈のジョン・レノンが、いつの間にか正史の中では「愛と平和の使徒」「聖人」に祀り上げられていく過程に、ある種の胡散臭さを感じていました。
白秋についても全く同じことを感じています。
これから採り上げる「赤い鳥」に集った連中は皆個性豊かで、子供達に理想的な童謡を提供しようした高尚な人物の枠に封じ込めるには余りに人間的魅力に富んでいると私は思っています。

実際、彼等は本当によく喧嘩し、罵倒し合っています。
そうした人間的な泥々した部分を切り捨て、徒らに聖人君子として崇め奉るのは、却って人間の真実から目を逸らすことだと思います。
彼等の弱さを含め、生身の彼等を見詰めることで、その人間的魅力に少し触れてみましょう。
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鈴木三重吉(1882 - 1936)
「赤い鳥」の創刊者、児童文化運動の父。
…なんて祀り上げられると、なんだか、聖人君子のような先入観をもちますが、結構、我儘で酒を飲むと泣くか怒るかで、師の漱石も持て余していたようです。
しかし、坪田譲二や新美南吉を育成したり、当時詩作から遠ざかっていた西條八十を、再びこの世界に呼び込んだり、人材発掘と言う意味での貢献は図り知れません。
(残念ながら、宮沢賢治は彼のお眼鏡に適わなかったようですが)
一説には白秋、八十の起用は三木露風の推薦だと言われています。(八十は劇作家、灰野庄平からの紹介という説もある)
八十は商売人として成功した父の遺産を承継しましたが、廃嫡された兄に騙されて苦労をし、三重吉の訪問を受けた時は神田で翻訳の仕事をしていました。
八十は待遇の不満や白秋との対立から「赤い鳥」を去り、やがて歌謡曲の作詞家として大成するのですが、芸術的な高みと言う意味では「赤い鳥」時代に止めを刺します。
白秋も酒豪で豪快な人物ですが我が強く、結局、三重吉と衝突して喧嘩別れしてしまいます。

【 作曲家 】

もともと、白秋は詩人だけあって、童謡等も曲に依存する気は毛頭なく、この詩も先に見たように単独で発表されています。(その後「赤い鳥」では付曲の上、同時発表されることも)
この歌は、後に複数人が付曲しました。
私の知る限りでは、近衛秀麿、成田為三、山田耕筰、宮原禎次、市川達雄等です。

さて、通説によると三重吉が「赤い鳥」の為の作曲家の紹介を山田耕筰に依頼したところ、彼は近衛秀麿と成田為三を推挙。
(露風は、この二人を推挙したのは自分であると述べています)
鈴木は、同門の二人を最初は隔月で担当させようとしますが、文部省唱歌に代わる「子供の為の作品」を目指す成田と、子供の歌に留まらず完成度の高い「日本の歌」を目指す近衛の対立は激しいものでした。
そして、その成田は、酒乱の気がある三重吉もうんざりする程、酒癖が悪かったと言われています。
一方、近衛は乗馬を三重吉と楽しむ等、流石、お公家様は違います。
為三は作曲が早く、隔月ルールなぞ無視して近衛を作品発表の上で圧倒していきます。
(近衛作品の発表は確認できた限りでは3編のみです)


ここでは、以下、この近衛、成田、山田について相互の関係と共に作品を見ていきましょう。

なお、余談ですが、このブログで採り上げた「竹田の子守唄」を歌った赤い鳥の名前もこの雑誌に由来します。
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1.近衛秀麿 (1898 - 1973)
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謂わずと知れた、名門近衛家の次男。首相となった近衛文麿は異母兄に当たります。元子爵。
黎明期の日本クラシックを育て、「おやかた」の愛称で親しまれました。
雅楽に材を採った「越天楽」(1928(昭和3)年初演)は国際的に評価されています。

数ある付曲の中でも、彼によるものが一番有名で、有美さんも採用しています。

この作曲時期は諸説があります。
詩とほぼ同時と言う説、1921(大正10)年12月説、、友人の藤原義江(テナー)の為に1927年に作曲されたと言う説迄。

22年6月には山田耕筰と共に童謡・歌謡曲発表会(第2回 花と音楽の夕)を開催。その中でも、この作品を上演している記録が残されていますので、27年説は採れません。

私は、大野芳「近衛秀麿―日本のオーケストラをつくった男」(講談社06年)に従い、21年12月説に依ります。
要は、この作曲時期如何が後記の成田為三とどちらが先に作曲したかと言う議論に絡みます。

略歴:
1915(大正4)年、ドイツ留学から帰国した山田耕筰に作曲を学ぶ。
1923(大正12)年、渡欧。成田に遅れること、約1年。
1925(大正14)年 帰国後、山田耕筰等と日本交響楽協会設立。
1926(昭和元)年、近衛、日本交響楽協会における山田の不明経理の責任追及。逆に糾弾され解雇される。
この時のマネージャーが原善一郎であり、後に関東軍の情報担当ともなる実業家で、その実父はあの三渓園を作った原三渓(富太郎)。この事件の背景としては、諸説があります。
いずれにせよ、彼は近衛支持派44名と日本交響楽協会を退団。
新交響楽団(現、NHK交響楽団の前身)を設立、主宰します。
1935(昭和10)年、新響改組事件。
再び不明朗会計糾弾に端を発した事件。
組合組織を希望する楽員と近衛は対立。評論家、ファン、放送局までを巻き込む事態となるが、結局、近衛と原が退団を余儀なくされます。
1936(昭和11)年以降は、活動拠点を海外に移し国際的に活躍、「プリンス・コノエ」と呼ばれます。
戦後、既に長老格となっていましたが、何度かオーケストラ結成を試み、悉く失敗。
参院戦に立候補・落選、また詐欺事件に巻き込まれたり、音楽的な功績・活動は十分素晴らしいものであったにも拘わらず、心身的にも不遇な晩年を送ります。
また、女性関係も奔放なものがありました。
没後に行なわれた追悼演奏会では、前年に分裂した「日本フィルハーモニー」と「新日本フィルハーモニー」双方の楽員が立場を超えて共に演奏。日本のオーケストラ育成に心血を注いだ近衛の生涯や人徳を象徴する出来事でした。

現在、公的行事やNHKの放送終了時流される「君が代」は近衛の編曲。

2.成田為三(ためぞう) (1893 - 1945)
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おぼっちゃま育ちの近衛に敵愾心を抱いていたと言われているのが当時音楽教師(訓導)をしていた成田為三。
1921(大正10)年3月、白秋が詩を単独発表した2か月後、成田の楽譜が「赤い鳥」に掲載されます。
(当時の楽譜を掲載した紙面は、広島市文化財団によるHP「鈴木三重吉と「赤い鳥」の世界へ」で)
同年8月の『「赤い鳥」童謡第五集』も為三の曲を掲載。
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近衛による作品の成立時期如何で、当時の近衛、成田の行動・心情の解釈も変わります。
後で作曲した方は前者の作品を越えるべく敵愾心を以って臨んだ可能性が高いと思われます。
いずれにせよ、為三はこの後ドイツへ留学し、これが白秋とは事実上最後の仕事となります。
(「赤い鳥」には、その後も曲譜を発表しています)

さて、成田為三によるこの歌のリズムは、ハバネラにも通じるもので、新しい感覚があり、個人的には抒情性の強い近衛版より私は好きです。

略歴:
1914(大正3)年、東京音楽学校で山田耕筰に作曲を学び、在学中(1916年頃)に「浜辺の歌」を作曲。
「赤い鳥」の作曲担当となり、第1作目の西條八十「かなりあ」 (大正8年5月号)の成功により童謡作曲家としての地位を確立。「赤い鳥」童謡の中心となった。
北原白秋の作品への作曲が多く、「雨」「りすりす子栗鼠」「赤い鳥小鳥」などがある。
1922(大正11)年1月 ベルリンへ留学。
1926(大正15)年 帰国後は国立音楽学校や東洋音楽学校で教鞭をとったが、昭和3年まで童謡作曲を続けた。
著書に『作曲の基礎』『楽器編成法』などがある。


3.山田耕筰 (1886 - 1965) 1930年に耕作から耕筰へ改名。
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さて、前記2人の師でもあり、特に近衛とは色々あった山田耕筰も後にこの作品に曲を付けています。

西洋音楽の普及に貢献。西洋音楽を吸収し独自の日本歌曲を創造、また人材を育成し、日本の音楽界黎明期の最大の功労者の一人でしょう。

略歴:
東京生まれ。
1910(明治43)年 東京音楽学校声楽科卒業後、三菱財閥の岩崎小弥太の援助でドイツへ留学し作曲を学ぶ。
1914(大正3)年、帰国後は、岩崎の組織した東京フィルハーモニーの首席指揮者に就任するも、赤字続きで解散。山田の恋愛事件が岩崎を怒らせたとも。
この頃の弟子が近衛であり、成田である。
1924(大正13)年、ベルリンから帰国した近衛秀麿と共に日本交響楽協会設立。
1926(昭和元)年、日響分裂。
(山田と近衛の和解は1931(昭和6)年)
軍国主義時代には音楽挺身隊を結成。占領地での音楽指導にも関わり、将官待遇を得ていました。
戦後には戦犯論争も。
1956(昭和31)年、文化勲章受章受賞。音楽家としては初めてでした。
音楽的評価とは裏腹に、当時の山田は経済的にも身体的にも不自由となり、色々な計画も頓挫します。
1965(昭和40)年12月、逝去。戒名は「響流院釈耕筰」
1966年1月、楽団葬(築地本願寺)では、全交響楽団の有志による山田の作品が演奏されました。指揮を務めたのは近衛秀麿でした。

作曲の経緯:
日本交響楽協会の分裂で、失意のドン底にあった山田は当時家族と共に茅ヶ崎へ居を移していました。
一方でオーケストラ再編の為、東京まで毎日往復。今で言う通勤をしていました。
日本交響楽協会出版部で出版する「童謡百曲集」の計画が持ち上がり、通勤時間を利用して創作することとしたのです。26年11月8日から約5か月かけて大半の曲を作曲。
完成後、全5巻を27年6月から29年4月まで順次刊行。
当時の売れっ子童謡作者である白秋、野口雨情、三木露風、川路柳虹、西條八十の5人の作品に曲を付けると言う企画で、既に他人が作曲していようがお構いなしでした。
この曲(27年11月刊行の第3集50曲目)は事実上の最後の曲として、1927年3月24日に作曲されています。(何故か、時期を外して、27年5月4日に最終局「漣」を作曲)
歌詞の大半は26年に新潮社から刊行された童謡詩人叢書の各詩人の巻に拠っています。(八十だけは赤い鳥社刊「鸚鵡と時計」)
百曲中白秋の作品は30曲。
歳は白秋が1つ上ですが、2人は気が合い、1929年11月には日本語による日本の歌を生み出そうと雑誌「詩と音楽」を創刊。(1年後、関東大震災で白秋のアルス社倒産し挫折)
山田による白秋の詩へ付曲は通算42曲に及び、彼の全歌曲中2割を占めます。

4.総括

いかがでしょうか。各人の去就が色々と複雑に入り組んでおり、興味深いですね。
挫折や苦渋が新たな創作の糧になったりする辺り、芸術の持つ面白い一面を見せくれます。


【 カヴァー 】

本来、広く歌われるべき童謡をカヴァーと呼んで良いのかどうか…

c0163399_23311647.jpg1937(昭和12)年7月14日、「我等のテナー」として一世を風靡した藤原義江は作者の近衛秀麿の指揮による弦楽合奏団をバックに録音。ビクターから発売。
左画像は藤原のオペラ歌曲以外の日本歌曲をCD2枚組に集約、聴きやすいようノイズレス処理した「ふるさとの」を含め全39曲収録。
ノイズレスSPアーカイヴズ 鉾をおさめて/藤原義江」(日本伝統文化振興財団 2009年)

以下、オーソドックスなものとやや毛色の変わったものを取り混ぜて。

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ダークダックスによる北原白秋名作 ベスト」(キング 09年)、安心して、あの頃に浸りたい多くの方に広くお勧めです。






c0163399_13352768.jpgErnst Haefliger エリンスト・ヘフリガー (1919 - 2007)はスイス人テノール歌手。バッハの傑作「マタイ受難曲」のエヴァンゲリストとして世界的な評価を得ました。親日家として知られ、72歳の時、日本歌曲をドイツ語で歌った企画もの。
(ドイツ語訳は村上紀子+マルグリット畑中)
発売当時話題になり、シリーズ化され、ライヴ音源を追加して再発も。
現在は廃盤ですが中古入手は下記で可能。
特に、この曲は彼のリリック・テノール(テノール・リリコ 「軽い、柔かい、若々しい『レッジェーロ』」と「重い、逞しい『ドラマティコ』」の中間に位置し、優美な感じで、叙情的な歌曲に適する)を堪能できます。ドイツ語は初級レベルの私には全く違和感なく楽しめました。
赤とんぼ」も歌っています。
日本の歌曲を歌う(ドイツ語訳に (EMI 1992)

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こちらは波多野睦美(メゾソプラノ)の「美しい日本の歌 (CCCD)」(エイベックス 03年)
これまでも、つのだたかし(リュート)と共にルネサンス、バロック期の歌曲、マドリガル、カンタータ等を採り上げる等ユニークな活動を行ってきた波多野睦美。
彼女が日本の歌に正面から取り組んだ作品。


c0163399_23464865.jpg既に世界的名声を博していた若き日(28歳)の Yo-Yo Ma ヨーヨー・マが日本の名歌に挑戦。
日本をうたう」 (Sony 1984)
勿論、実際に声をあげて歌ってる訳ではなく、間宮芳生の選曲、編曲、指揮により10曲を弾いています。
チェンバロ、フルートやパーカッションと言う西欧楽器と日本音楽集団と銘打たれた尺八や三味線、箏等の楽器団の共演です。
この曲は「ほとんど“いなかぶし”(陽旋法)」として“みやこぶし”(陰旋法)の「平城山」等と対峙する形で間宮により採録されており、千鳥の囀りを表現したフルートに導びかれ、ヨーヨー・マは箏と対話しつつ、表情豊かにゆったりと日本を歌い上げ、各楽器がそれをサポートしています。



謝辞
いつもの様に多くの書籍、ネットを参照させていただきましたが、特に今回は次の2つのサイトからは有益な情報を得ることができ、参考にさせていただきました。御礼を申し上げます。

池田小百合 なっとく童謡・唱歌   特に「山田耕作童謡百曲集」の制作経緯
Chinchiko Papablog  特に「赤い鳥」を巡る人脈やその関係


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by Eiji-yokota | 2010-06-03 20:00 | SONG | Comments(0)
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