Naomi's Choice 小柳有美の歌った歌
by Eiji-Yokota
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Summertime    Part 1

- 1935年 George Gershwin + DuBose Heyward -
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1935年9月30日 ボストンのコロニアル劇場で試験興行(トライアウト/プレヴュウ)され、10月10日よりNY、ブロウドウェイ、アルヴィン劇場(現:ニール・サイモン劇場)でギャラ・オープンしたガーシュウィンのオペラ"Porgy and Bess"の挿入歌。

今日ではガーシュウィンの作品の中でも代表作と目され、最も有名で人気も高く、スタンダード・ナンバーとして不動の地位を占めるに至っていますが、発表当初はオペラ自体もこの曲も、必ずしも世間は万雷の拍手で迎えた訳ではありませんでした。


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右画像はオペラ"Porgy and Bess"を創り上げた3人。
左から順にジョージ・ガーシュウイン(作曲)、デュボウス・ヘイワード(原作、脚本、作詞)、アイラ・ガーシュウィン(作詞、ジョージの兄)
原作はヘイワードのベスト・セラー小説"Porgy"(Doubleday & Company Inc, 1925年)。
また、デュボウスと妻のドローシーの脚本で、1927年10月10日からギルド劇場(現オーガスト・ウィルソン劇場)で3幕の演劇として上演されています。
オペラ化を提案したのは、ジョージ・ガーシュウィンでした。
上記3人はヘイワード夫妻の脚本をベースに共同で新しく曲を書き下し、新たなオペラを造り上げます。

以下に、"Porgy and Bess"及びこの曲の誕生の経緯を見ていきましょう。

ご注意:本文末尾に2個のテキスト広告が表示されることがありますが、これはブログの運営会社エキサイトが行っているものであり、当ブログは全く関与しておりません。




【 デュボウス・ヘイワード 】

作曲者のガーシュウィンについてはクラシック、ポピュラー両ジャンルに跨る20世紀最大の作曲家の一人として、このブログの読者には今更説明は不要でしょう。
では作詞家、共作者のヘイワードについては、どうでしょうか。少なくとも日本では従来あまり語られてこなかったのではないでしょうか。
このオペラの原作者にして脚本家、そして作詞者の一人、デュボウス・ヘイワードとは一体何者でしょう。
彼の生涯をフォローすることで、"Porgy and Bess"の世界の理解も容易になるかも知れません。
(より詳細な記録は"WHO'S WHO"をご参照ください)

Edwin DuBose Heyward (August 31, 1885 – June 16, 1940)
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左は、James M. Hutchisson による彼の伝記"Dubose Heyward: A Charleston Gentleman and the World of Porgy and Bess"(Univ Pr of Mississippi 00年)

ヘイワードが生まれたチャールストンは米国屈指の港湾都市で、また、アフリカから連れてこられた奴隷とその子孫が多い地区でもありました。
南カロライナとジョージア周辺に住んでいたこれらアフリカ系アメリカ人はガラ人と呼ばれ、全米で最もアフリカ文化の痕跡を残していると言われています。彼等の話す言語は英語とアフリカ語の混成語でガラ語(Gullah language)と呼ばれていました。
そのチャールストンの街も南北戦争で攻撃を受け、昔日の勢いを失い、名門ヘイワード家も没落。

デュボウスが2歳の時に精米工場で働く父が機械に巻き込まれ亡くなります。
以後、デュボウスは母、母方の祖母、妹と女ばかりの家庭で育ちます。
母は家に下宿人を置き、裁いものや街の印刷屋に為に詩的な広告を書くことで、なんとか生計をたてていました。唯一の男性である、幼いデュボウスもアルバイトで日銭を稼いでいました。
学校も14歳で退学し、職を転々とする一方、いくつもの大病に罹り(生涯、右腕の機能障害が残りましたが、幸い彼は左利きでした)、ベッドで過ごすことも多く、詩や戯曲を書き始めます。
そんな彼の楽しみはガラ人達の音楽を聴くことでした。
22歳(1908年)で友人と保険代理店、不動産業をはじめます。
ヘイワードはセールスマンとしては優秀で、ようやく生活の安定を得ます。
第1次大戦勃発により、チャールストンは復興を遂げます。海軍が駐留し、基地を中心に街は活気づき、ヨーロッパが戦場と化して行き場を失った観光客が訪れるようになります。
ヘイワードは文芸の才能を磨くべく、余暇を利用して、多くのアーティストを輩出した有名なMacDowell Colonyに参加するようになります。
そこで、劇作家志望のDorothy Kuhnsと知り合い、結婚(1923年)
翌年、デュボウスは妻の勧めもあり、事業を売却、文筆1本で生きていく決心をします。

1924年3月25日、ヘイワードは地元紙"the Charleston News and Courier"に掲載された前日の発砲事件を報じる記事に目を留めます。
サミュエル・スモールズと言う黒人がマギー・バーンズなる婦人に路上で発砲して逮捕されたと言うものでした。
彼は足が不自由で山羊にワゴンを曳かせて物乞いをして暮していた、ちょっとした街の有名人でした。
この記事がヘイワードのインスピレイションを刺激しました。
言うまでもなく、主人公ポーギィの職業、属性と特徴ある小道具が揃ったのです。

1925年9月 "Porgy"出版
そこにはヘイワードが若き日々に身近に接していた世界が細部に亘って、いきいきと再現されていました。
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ヘイワードのチャルストンの自宅(チャーチ・ストリート76)近くにあった黒人街、八百屋が道路まではみ出していた為「キャベツ横丁(Cabbage Row )」と呼ばれていた縦割り長屋(同89-91)は、波止場に移され、名前も「なまず横丁(Catfish Row)」と変えられましたが。
そこは崩れかけた2棟の建物と荒果てた中庭のある所。(右画像は「なまず横丁」と目される場所の当時の風景。下はオペラ初演時の舞台)
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実際、彼の作品は色彩感溢れ、スリルとサスペンスに富む展開の一方、物売りの声、ダンス、ブルース等様々な黒人音楽が随所に描かれています。
(作品の詳細はPart3で)
作品は好評を博し、ベストセラーとなり、ヘイワードも作家としての地歩を築きます。

翌年、ヘイワードはこの作品をオペラ化したいと言う申し出の手紙を受取ります。
差出人は当時、ミュージカルの世界で売れっ子となっていたジョージ・ガーシュウィンでした。

【 オペラ"PorgyとBess" が出来るまで 】

その頃、ショウビズ界の成功に飽き足らなくなったジョージ・ガーシュウィンは、「アメリカの言葉」でオペラを書きたいと言う野心を燃やしていました。

ヘイワードの元にはこの本の劇化の話は既に何件か寄せられていましたが、ヘイワード自身はこの作品は舞台向きではないと思い、それらを断っていました。
それは劇作家志望の妻ドローシーを失望させますが、諦めきれない彼女は夫の「判断ミス」を証明し、撤回させようと内緒で脚本を書き始めていました。
そこに舞い込んだガーシュウィンからの手紙。
意外なことに、ヘイワードはガーシュウィンにオペラ化に賛成する旨と数ヵ月後に北部に行く予定があるので、その際、打合わせようと返信します。
追い詰められたのはドローシーでした。
このままでは自分の脚本がムダになる…
とうとう、彼女は秘かに脚色していたことを夫に告白し、書きかけの脚本を見せます。
妻の脚本を読んで感動したデュボウスは一転して劇化に賛成します。
ガーシュウィンとの打合わせの場で、デュボウスは劇化の意向を伝え、彼女の(そして、その時点ではデュボウス自身も共同で脚本を作成していました)脚本を優先してもらいたい旨を申し入れます。
ガーシュウィンは、劇とオペラはぶつからないとして、この申し出を快諾します。
また、オペラ化には暫く時間がかかることを告げます。契約していたミュージカル制作が山積状態で、また、その時点では自らの力量がオペラ化には十分でないことも認識していました。
事実、後記のように、彼はクラシックの作曲法についてレッスンに通っています。

1927年10月10日  シアター・ギルドにより、"Porgy"上演、367回公演を記録。
ガーシュウィンも当然見に行き、やはりこの作品をオペラにしたいと感じます。
シアター・ギルドは1919年に、第1次世界大戦で一旦解散した米小劇場運動の先駆、ワシントン・スクェア・プレイヤーズを前身として、再結成された演劇製作集団。
メンバーの多くが無償で働くセミプロ集団からなる協同組合組織で予約会員制を敷き、商業演劇とは相容れない芸術性高い作品の上演を指向していました。
1925年には自前の劇場、Guild Theatreを開場(245 W. 52nd St., New York, NY、現"August Wilson Theatre")。
"Porgy"もここで上演され、ブロウドウェイにおける最初のオール・カラード・キャスト演劇となります。
ロシア系アメリカ人でオペラ演出や後にハリウッドで監督も務めるRuben Mamoulian ルーベン・マムーリアンが演出を担当し、劇中で多くの黒人霊歌を採り上げました。
なお、劇化に際しては、ラスト・シーンを含め、原作と若干の相違がありますが、これについてはPart2で触れます。
後に制作されるオペラ版も、基本的にこの台本を踏襲します。

1929年9月13日 "Porgy"のリヴァイヴァル公演がほぼ同じキャスト、スタッフでマーティン・バック劇場(現:Al Hirschfeld劇場)で上演されますが、今回は僅か34公演に留まりました。
(あまりに低い数字は世界恐慌の始まり~29年10月24日の関係もあるのでしょうか)

32年 ジョージは、ヘイワードにオペラ化について打合わせたいとして文通を再開。
同時に「名曲は数学原理に従って作曲されている」と主張する音楽家のJoseph Schillinger ヨーゼフ・シリンジャー(1895 - 1943 ウクライナ生まれ、米国移住。その音楽理論シリンジャー・システムを継承したローレンス・バークによって、彼の理論普及の為設立された学校が、後のバークリー音楽学校)に師事し、クラシック作曲の為の研鑚を積みます。また、音楽史や音楽理論を独学で研究。
しかし、5月に入り、ジョージは「新しい仕事(ミュージカル"Pardon , My English"の作曲)が入った」とヘイワードにオペラ作曲の延期を告げ、落胆させます。

そうこうする内に、今度はAl Jolson アル・ジョルソン(1886 - 1950 :米国のエンタティナー、リトアニア生まれ。黒塗の顔で黒人を演じた)がシアター・ギルドにミュージカル化を働きかけます。

ガーシュウィンは、ジョルソンがオペラを演じられる訳はないと踏み、「ご自分の脚本で稼ぐことを邪魔をする気はなく、それにより本格的オペラ・ヴァージョンを損なうことにはならいと思う」と鷹揚なところを見せます。
しかし、ジョルソンは、"Show Boat"で大成功を収めたジェローム・カーンとオスカー・ハマースタイン2世を引き込み、ガーシュウィンの考える娯楽風オペラに近いものを狙っていました。
恐慌によりヘイワードが預金していた銀行で閉鎖され、彼は経済的にピンチに陥っていました。
この為、ヘイワードも一時はジョルソンに権利を譲り、オペラ化は当面断念する方向に向かいます。
が、カーン=ハマースタイン・コンビは多忙で、ジョルソンの計画は一向に進捗しませんでした。
困ったヘイワードはこの作品をミュージカル・コメディでなく、フォーク・オペラにしたいとの意向をガーシュウィンに伝え、「本当にオペラ化する気があるのか、あるならば、シアター・ギルドの申し出は断る」とガーシュウィンに迫りました。
ジョージは「今の仕事を片付け、34年から着手する」と答えます。
一方でオペラの殿堂メトロポリタン劇場もガーシュウィンにボーナス付きのオペラ上演契約を提示しますが、彼は劇場での上演を望み、これを断ります。
シアター・ギルド側も何時まで経っても進捗しそうにないジョルソンの計画に見切りをつけ、ガーシュウィンのオペラ上演に乗換えを図ります。

1933年10月26日 ガーシュウィンとヘイワード、シアター・ギルドは正式に契約。
共同制作の方式は、アイラの提案した、互いに機会を見て訪問するが、基本的には、デュボウスが部分的に完成した脚本を都度ガーシュウィンに送り、それにジョージが曲を付け、同時にアイラが歌詞に磨きをかけると言う役割分担、仕組みとすることで落ち着きます。
ヘイワードは自身詩人でもありましたが、作詞は別の専門的技術を要すると理解しており、実際、後に完成した歌詞を見て、アイラの仕事ぶり、貢献を高く評価し、作詞の印税を折半することを申し出ます。
33年11月12日 ヘイワードは早くも第1場の脚本をガーシュウィンに送ります。
34年1月から始まる演奏旅行の直前、ジョージはチャールストンに立ち寄ってヘイワードを訪れ、次回は、この地に長期滞在して本格的に作曲する意向を伝えます。
34年2月 ツアーを終えたジョージは本格的に作曲を開始。
最初に作られたのが、この"Summertime"でした。

以後、ジョージは、精力的に作曲を続け、その年の内に歌部分を完成させます。
6月、約束通り、チャールストンを再訪。デュボウスの勧めで、彼の別荘があるチャールストンの沖合15kmにあるリゾート地、Folly フォーリー島に滞在、フォリーウッドと名付けたコテージを借り、8月までの数週間を過ごします。
ヘイワードは近くの島や黒人の生の生活や音楽の聴ける場所にジョージを案内。ジョージは、それらにヒントを得て、次々に作曲し続けます。

35年に入ってからは、出演者のオーディション(ガーシュウィンがオール・カラード・キャストを希望した為、当時の情勢では選考は難航します)とオーケストレイション、リハーサルが同時並行的にに進められます。
演出は、ギルド劇場の舞台を演出した前記マムリアンが担当。
タイトルも舞台版との相違を強調する為、ヘイワードの発案で"Porgy and Bess"と決まりました。
声楽用楽譜560頁、オーケストラ用楽譜全700頁をほぼ完成させたガーシュウィンは、8月23日と記しました。8月26日からリハーサルが始まり、実際に全て完成したのは、トライアウト直前の9月2日とも言われています。

このオペラの詳細についてはpart3で。

【 歌詞 】
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この歌は、舞台の冒頭、イントロ~Jasbo Brown Blues の後、漁師Jakeの女房Claraが生まれたばかりの赤ん坊を抱えて歌う子守唄として登場します。
更に第2幕4場と第3幕第1場でも歌われます。
ほぼ同じ歌詞が(2回目以降は、必ずしも全部が歌われる訳ではありませんが)、歌われる状況で全く別の意味をもつと言う巧みな構成です。その詳細はPart3で述べますが、ここではヘイワードの書いた歌詞を見ていきましょう。


夏が来る、暮しやすい季節だわ。
魚は飛び跳ねるし、綿は高く生い茂る
パパは金持ちだし、ママは美人
だから坊や、泣かないで、静かにお休み

これが現実の黒人の生活と裏腹であることは言うまでもありません。
そして、彼等は次の節で子供の未来に希望を託します。
あるいは、それはこの厳しい現実を逃がれる術そのものなのかも知れません。


いつの日か、お前も立ち上がり歌い出す
そして翼を広げ大空へと飛び立つ
でも、その日までは何の心配もいらない
パパもママもお前の傍にいるから

【 Summertime の原曲を求めて 】

アイラの描写する、この曲の誕生の瞬間。
「ジョージがデュボウスの2段の4行詩を暫く見つめていたと思ったら、後に繰り返し歌われることとなったあの"Summertime"のメロディが直ぐに飛び出してきた」
ジョージ・ガーシュウィンの天才ぶりを示すエピソードです。
つまり、この曲に関してはアイラは一切タッチしていません。
したがって、このブログではアイラを作者の表記から割愛しています。
ASCAPへの登録は、上記の全ての作詞の印税を折半すると言う取り決めに従い、アイラもクレジットされています。(Work ID: 490161796 )

さて、「直ぐに飛び出してきたメロディ」は、ジョージの潜在意識の中に寝っていたものが目を覚ましたものだったのでしょうか。
Wikipedia(英語版)によると、この曲の元になったのは、1926年、ジョージがNYで聴いたアレクサンダー・コシュッツ(1875 - 1944 ウクライナの指揮者)のウクライナ国立合唱団のウクライナの子守唄"Oi Khodyt Son Kolo Vikon (A Dream Passes By The Windows)"としています。
Wikipediaには、同曲の頁まであり、英語訳の歌詞まで掲載されています。
http://en.wikipedia.org/wiki/Oi_Khodyt_Son_Kolo_Vikon
しかし、You Tube やAmazonのディスク情報等をチェックしましたが、今日現在、私は上記曲を実際に確認出来ていません。国際的に著名なネット・メディアで、です。世界的情報化時代になんとも不思議なことです。

むしろ、私がこの曲を聴いて思い浮かべるのは、次の2曲です。
ブルースの父、W.C.Handy の"St.Louis Blues"
黒人霊歌の"Sometimes I Feel Like A Motherless Child"
ジョージ自身、前者について大きな影響を受けたことを認めています。
例えば、彼は"Rhapsody in Blue"をハンディに献じています。
逆に言えば、ガーシュウィンの積年の黒人音楽の研究の成果が巧まずして形に出たと言うところでしょうか。
尤も、ブルースはある程度制約のある音楽なので、どうしても似たパターンになリがちであることも事実です。


Part2  カヴァー曲
Part3  ポーギィとベス


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by Eiji-Yokota | 2010-06-03 21:02 | SONG
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