Naomi's Choice 小柳有美の歌った歌
by Eiji-Yokota
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Silent Night / Stille Nacht! Heilige Nacht! 「きよしこの夜」    Part 1

- 1816年  Josef Mohr + 1818年 Franz Xaver Gruber -
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おそらく世界中で最も知られているクリスマス・キャロルにして賛美歌。
300か国語に訳され、カトリック、プロテスタントの別なく歌われています。
キリスト教徒でなくても、現代文明の中で生きている限り、この曲に触れたことのない人はまず皆無でしょう。

1818年のクリスマス・イヴ、
オーストリアの小村オーベルンドルフ(Oberndorf bei Salzburg)の聖ニコラ教会(St.Nikolaus Kirche)のクリスマス・ミサで初演されたこの曲は、同教会の助任司祭(副司祭)のヨーゼフ・モーア(Joseph Mohr)(1792 - 1848)が作詞、同じく教会の合唱指揮者兼オルガニストでだったフランツ・クサーファー・グルーバー(Franz Xaver Gruber)(1787 - 1863)が作曲したものです。

以上の「事実」については、完全に立証されていますが、しかしその一方で、この曲の誕生を巡っては、次のような「伝説」がまことしやかに流布されています。

そのクリスマス・イヴのこと。
ヨゼフ・モーアは教会のオルガンのふいごが前夜ネズミに噛み切られ音が出なくなっていることを発見しました。村にはオルガンを修理を出来る者はおらず、チロルから修理工が年明けに来るのを待つしかありません。このままではクリスマス・ミサが出来なくなると思った彼はその場で詩を書いて、フランツ・グルーバーに渡し、ギターで伴奏出来る曲を付けて欲しいと頼み込みます。モーアは日頃からギターを持ち歩いていたのです。彼は更に二人で歌おうと提案します。
グルーバーは最初尻ごみしますが、これに応え短時間で曲を完成させます。
ミサは大成功でした。
年が明けてオルガンの修理にやってきた職人がこの曲を気に入り、チロルへと持ち帰り、やがて、ヨーロッパへ、新大陸へ、そして世界中に伝えられていきました…

実によく出来た話です。
でも、「出来過ぎ」てはいませんか?
さて、真相はいかに?



【 作者を求めて 】

1818年、"Stille nacht"は、小さな村の教会での真にささやかな初演でその使命を終えました。
そう作者二人が思っていたのですが、実は、作者達の知らないところで、聖歌として人から人へと伝わっていくのです。
1827年にロンドンの王宮で、1831年にはモスクワ、1839年にはニューヨークでと演奏の輪は広がっていきました。
次第にクリスマスの聖歌の定番として世界的に認められていく一方で、この曲は作者不詳のチロル民謡と思われるようになっていました。(例えば、1833年フリーゼ社刊の「4つのオリジナル・チロルの歌」に収採)
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作者二人の生涯(左画像は新しい聖ニコラ教会にある二人の記念像。下がモーア、発掘された頭骨からイメージされたと言われています。上のグルーバーは肖像画をベースにしています)については後ほど簡単に触れますが、それぞれの本業を務めあげ、相応の実績も残し、間違いなく周囲の人からは敬意を表されていました。ただ、それはごく狭い範囲内のことで、世間的には「市井の人」つまり殆ど無名の存在でした。
当時は著作権の考え方も制度も今ほど強固なものではありませんでしたが、なにより二人は謙虚でした。
モーアより少し長生きしたグルーバーは、この曲が広まったことを知り得たのですが、素直にそれを喜び、誇りに思ったことでしょうが、著作権を振りかざし、財産を増やすことなど思いもしなかったようです。

こうして、作者不詳のまま広がったこの聖歌の作者名が判明し、認知されたのはいくつかの偶然が重なった結果でした。
初演から36年後の1854年、この聖歌の作者をフランツ・ヨーゼフ・ハイドンの弟、ヨハン・ミヒャエル・ハイドンと推測したベルリンのプロイセン王立宮廷楽団が、ザルツブルク(Salzburg)の聖ペーター・ベネディクト会修道院にオリジナルのスコアが保管されていないかと照会してきました。
ミヒャエル・ハイドンはモーツァルトの後任としてザルツブルクの宮廷と大聖堂のオルガニストに就任し、多くの教会音楽・聖歌を作曲していましたので、この推測は必ずしも的外れでもありませんでした。
当時、この修道院の少年合唱団に、フランツ・グルーバーの息子の一人、フェリックスが所属していたのです。彼は、この聖歌が自分の父の作品であることを告げます。
これを受けて修道院合唱団監督アンブロス・プレンシュタイナー神父はフランツ・グルーバーにベルリンに経緯を伝えるよう促したのです。

       +++++++++

オーベルンドルフに新しく設立された聖ニコラ教区教会の当時の助任司祭ヨーゼフ・モーア氏がオルガニストの仕事を代行していたフランツ・グルーバー(当時はアルンスドルフの学校の教師でもありました)に詩を渡して、その詩にふさわしいメロディーとコーラス、ギターの伴奏で書いて欲しいと願い出たのは、1818年12月24日のことでした。
後者は、要望に従って簡単な曲をその夜にすぐに作曲し、写譜とオリジナルをその音楽に詳しい聖職者に届けました。
(すばらしいテノール歌手だった)モーア司祭とオルガニストのフランツ・グルーバー(バス)がこの曲を教会のクリスマスイブにすぐに演奏し、みんなの喝采を浴びました。J.モーア氏はギターでこの曲に伴奏をつけました。 (中略)
このクリスマス聖歌は、有名なツィラータールの人がチロルまで伝えました。このクリスマス聖歌はライプチヒの歌曲集に掲載されていますが、いくらか違った形となっています。作者として謹んで、この曲のオリジナルを添えさせていただきます。
                              1854年12月30日 ハラインにて
                                   フランツ・グルーバー  拝

       +++++++++
グルーバーは促されて、2種類の書状を準備しました。
上記は私がそこから抜粋し、更に1つの書状形式として再構成したものです。
彼が自身のことも客観的に記述しているのが印象的です。
既に作者の一人であるモーアは、この6年前に亡くなっていました。グルーバーはその気になれば出来た「名誉」の独り占めに走ることなど、考えもしなかったのでしょう。

こうして、めでたく作者として二人の名前が世間的にも認知されたのですが、後日、今度は晩年のモーアの友人・関係者を称する人物が「モーアは作曲も自分が行ったと語っていた」と主張し、グルーバーの遺族までを巻き込んだ論争が2度までも起こりました。
しかし、モーアの晩年を知る他の関係者が逆にグルーバーを擁護しました。
その中の一人は、グルーバーの孫のフランツこう書いてよこしました。
「私たちはこのうえもなく幸せな気分で『きよしこの夜』の作詞者が他人から干渉されずに平穏な生活が出来るようお世話しました。彼は感謝して、こう話しました。『1818年のクリスマス直前にフランツ・グルーバーさんのところへ行って話をしたときが、人生のなかで一番幸せな瞬間でした。そのとき二人で何か聖夜のために作ろうと話し合い、実際にそうしたのです。私がテキストを、フランツ・グルーバーがメロディを書いたのです』何度もこの話をしてくれましたが、いつも同じ話でした」
その他いくつかの状況証拠も提示され、論争は決着しました。

1995年、決定的「証拠」が発見されました。
なんとモーア直筆のこの曲の歌詞と楽譜が出てきたのです。
それが、冒頭の画像です。(クリックすると拡大されます)
楽譜の右上には明確に作曲者としてグルーバーの名が、左下には作詞者としてモーア自身の名と1816年の表示があります。
この年号の表示については、モーアの勘違い説もありますが、この楽譜が彼の直筆であること及びモーアがこの詩を書いたのは1816年前任地のことであり、この楽譜自体は1820~25年の間に書かれたものと言うのが、研究者間では有力なようです。


【 聖歌を生んだ村と作者達 】
では、この聖歌はどう言う背景を持って生まれたのでしょうか。
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まず、オーベルンドルフの村と当時村がおかれていた状況からお話ししなければなりません。
オーベルンドルフはザルツブルク(「塩の砦」の意)の北20kmに位置する村です。
ザルツブルクの塩を水路で各地へ輸送する船乗りの町ラウフェン(Laufen)の一部として発展しました。ザルツブルクから北へ流れるザルツァッハ(Saltzach)川はここで大きく蛇行するのです。

時は19世紀。
当時のヨーロッパはフランス革命とそれに続くナポレオン戦争により20年以上も戦禍を被っていました。
ザルツブルクと周辺の地域は、司教が領主となって統治していましたが、政治的軍事的圧力に屈し、1803年にイタリアのハプスブルク家の支配下に入るのもつかの間、次にオーストリアに併合され、更にバイエルン王国(ドイツ)へ編入と、めまぐるしく歴史に翻弄されます。
1816年、ようやくウィーン会議によりザルツブルクは最終的にオーストリアに併合されました。
一方、ザルツァッハ川を挟んで西岸のラウフェンはドイツ領、100軒程度のオーベルンドルフはオーストリア領と分割されてしまいます。それまで一つの組織体として運営されていただけに、行政施設始め独立した村としての機能を急遽整備しなければなりませんでした。グルーバーの書状にあるように、聖ニコラ教会(上画像・当時)の所管も変わったのでした。
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モーア(左画像は想像で描かれたもの)はザルツブルクで生まれ、よく知られているように私生児でした。父は最下位の兵士として働いていましたが、ある日、逃走してしまいます(1814年に死去)。
母は編み物職人として父の違う4人の子を育てました。当時は勿論未婚の女性が出産することは犯罪でした。しかし、それ以前に使用人や下女の結婚は禁じられていたと言う歴史的背景を私たちは考慮すべきでしょう。

モーアは勉学に優れ、また音楽が好きな少年として育ち、その才能を認められ、経済的援助を受けて、神学校に進み聖職者への道を歩みます。
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やがてマリアプファール(Mariapfarr 右画像)へ赴任。
この曲の歌詞が書かれたのは、この町であると言うのが現在の定説です。
1817年、モーアは聖ニコラ教会に赴任してきました。
司祭館もなかった為、モーアは宿屋の食堂で食事をし、周囲の人との交流を深め、またその窮乏に直に触れたのです。

当時の村の状況は厳しいものでした。
船主のいるラウフェンから切り離されたオーベルンドルフ村側の船乗り達は失職の危機に陥り、更に何度も洪水に襲われ、凶作が追い打ちをかけ、飢餓が蔓延し、生活状況は困窮していました。頼みとするザルツブルクもかつての地位を失い、更に大火事に襲われ、大きな経済的損害に喘いでいました。
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フランツ・グルーバー(左画像は1846年作の肖像画)はオーベルンドルフの近郊のホーホブル(Hochburg)の亜麻布織工の家に生まれました。
当初織工の仕事についていましたが、音楽が好きでその才能を認められ、父の許しを得て教師の道に進みます。
やがてアルンスドルフ(Arnsdorf)で教師とオルガニストの地位を得ますが、教師としての職は安定していると言い難く、1816年オーベルンドルフの分割独立に伴い、3km南のこの村にオルガニストとして通うよう要請され、これを受諾します。

こうして二人は小さな船乗りの村で出会うことになったのです。
1818年のクリスマス・イヴ
苦しい日々を過ごしている人々を何か励ます手立てないものだろうかと当時26歳のモーアは考えたに違いありません。そして自作の詩を携え、当時31歳のグルーバーを訪ねたのです。
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ここで、注目すべきは、モーアが当初からギター(右画像は「きよしこの夜」博物館に展示してあるモーアのギター)で伴奏することに拘っている点です。
ここまでの経緯を見てくると、彼がこのミサには最初から豪勢なパイプ・オルガンは相応しくないと考えていたのではないか、と言う説に素直に賛同したくなります。
「ネズミの伝説」など、モーアやグルーバーの、この曲にかけた「思い」の理解を遠ざけるものでしかないと言わざるを得ません。

グルーバーはモーアの「思い」を理解し、シンプルなメロディを作ったのです。
たしかに、それはチロル地方(のアルプスホルン、チター、ヨーデルを思わせる素朴な響き)を感じさせるもののように私には聞こえます。
しかし、それはさておき、グルーバーがその夜の聴衆のことを考え、分り易く覚えやすい曲を作った時点で、この曲のその後の運命は決まったのでした。


【 聖歌と二人のその後 】

モーアは翌年、オーベルンドルフを離れ、次の任地であるクッフル(Kuchl)へと向かいます。
グルーバーはザルツブルクまで彼を見送っています。
多くの教区で務め、やがて彼は主任司祭となりますが、生涯、貧しい人・困窮する人に手を差し伸べ、質素な生活をおくりました。1848年12月4日 肺病で亡くなります。56歳。
葬儀の費用は彼の残した資金では足りなかったと言います。
グルーバーは29年にオーベルンドルフ及びアルンスドルフを離れ、ベルンドルフ(Berndor)で校長を務め、33年にハライン(Hallein)で聖歌隊長に就任し、自由に音楽活動出来る地位を手に入れます。
ハラインのグルーバーをモーアが訪ねたこともあったようです。
1863年6月6日 衰弱で死去。76歳。
その作品は70に及ぶそうです。
ハラインで彼が暮らした家は今「きよしこの夜」博物館になっています。
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さて、グルーバーの書状にあった「ツィラータール(Zillertaler)の人」とは、オルガン制作者だったカール・マウラッハー(Karl Mauracher 1789 - 1844 右画像)でした。彼は1821年にオーベルンドルフを修理に訪れています。
しかし、24年に新オルガン購入が決定されており、一時的修理ではもたなかったようです。
グルーバーが書いたザルツブルクの役場宛ての援助申請書には「とても古くて、あちこちに虫に食われて、出ない音もいくつかあり、目下使用に耐えない状態である。修理には莫大な費用がかかる」とあります。
1818年時点でどの程度音が出ていたかは分りません。
フランツの息子は聖歌が当時ギターで伴奏された理由をオルガンが使えなかったからと推測しているのですが、真相は分りませんが、私は前記の通り、この説は採りません。
(弾けないオルガンではオルガニストとして収入もないでしょうし。尤も合唱の指導者も兼任していたようですが)
しかし、いずれにしても、犯人はネズミではないことは確かなようです。

マウラッハとグルーバーの間には当然オルガン問題以外にも交流があったでしょうし、彼がこの聖歌を故郷に持ち帰ったことは間違いないでしょう。
ただ、1819年既にマウラッハの故郷、フューゲン(Fügen)でライナー・ファミリー合唱団(The Rainer Family Singers)がこの聖歌を歌ったと言う記録もあるようなので、真実なら、マウラッハとの接触が以前からあったか、別ルートでもこの聖歌が伝わった可能性もあると思われます。
因みに同楽団はこの歌を世界的に有名にした国民的合唱団と呼ばれているそうです。

そして、インターネットはもとより、ラジオ放送もレコード等のメディアもない時代に確実にこの聖歌は自身の力で世界中に伝わっていくのです。

【 The Christmas Truce 】
1870年のクリスマス・イヴ
普仏戦争の際、聖歌による一時的自然発生的な停戦が実現したことは"O Holy Night"でも触れましたが、この曲もその時一緒に歌われたと言われています。(詳細は曲名をクリックください)
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1914年のクリスマス・イヴ
第一次大戦中のベルギー、イーブル。
フランス国境に近い、所謂「西部戦線」での出来事。
英軍とドイツ軍が国境を挟んで互いに塹壕の中で対峙していました。
突然、ドイツ側がクリスマスツリー(もともとドイツが発祥の地)に明りを灯し、高々と掲げました。
何事かと身構える英国軍に緊張が走ります。
次の瞬間、ドイツ側から聴こえてきたのはドイツ語による"Stille Nacht! Heilige Nacht!"でした。
歌が終わった後、今度は英国側が英語による"Silent Night"を合唱し、戦場から銃声や砲声が消えました。
やがて双方の兵士たちは、ひとりふたりと銃を置いて、中間地帯に出て行き、相手側とクリスマスの挨拶を交わし、握手を始めました。
兵士たちは、ウィスキー、ジャム、タバコなどを交換し合い、捕虜の解放や、放置されていた戦死者の遺体の埋葬等を行いました。
ドイツ側が作ったツリーには"You No Fight. We No Fight"と書かれていたと言われています。

各前線にこの動きはたちまち伝播し、中には現場の指揮官の判断で協定を結び、正月まで停戦したところやフットボールを楽しんだところまで出てきました。
それは指揮命令系統遵守が絶対である筈の戦時下の軍隊では許されない、現場の自発的あるいは独断による「停戦」でした。

クリスチャンであろうとなかろうと、平和を望む気持ちが、ひとときとは謂え「静かな夜」を実現させたのです。

ところが、軍の上層部、特に英国軍上層部はこの行為を反逆行為とみなして激怒し、この件を一切の公式記録から抹消しました。
しかし、戦場から帰った兵士達によって口々に伝えられ、(例えば、翌年の正月のThe Times紙、The Daily Mirror紙等でも大きく報道されています)内容を膨らませ何度か映画化されることとなります。
当時の将軍たちの隠蔽工作は一時成功したかに見えましたが、今日では"The Christmas Truce"(クリスマス停戦・休戦)は歴史的事実として広く知られるようになりました。

Silent Night: The Story of the World War I Christmas Truce(Pocket Books 2001)他参照

【 きよしこの夜の誕生の地の現在 】

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さて、その後の聖ニコラ教会ですが、丁度ザルツァッハ川が大きく蛇行するまさにヘアピンカーヴの頂点(底?)にあたる場所に建てられていた為、度々洪水に襲われ、1913年、ついに取り壊されてしまいます。
現在その跡地には「きよしこの夜礼拝堂」kapelle(上画像)が建てられています。
今年のクリスマス・イヴもここで彼らが最も大切にし、誇りにしている特別な聖歌が歌われることでしょう。

1995年 オーストリアがEUに加盟し、ようやく、かつては一緒の町であったラウフェンへの往来が自由になりました。
2000年 オーベルンドルフは市に昇格し、「国境のない市」を目指す基本方針が採択されました。
2003年 ザルツァッハ架橋百周年記念を両市共同で祝い、団結をアピールしました。
同市のHPにはラウフェンのそれがリンクされています。
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さて、1記事あたりのブログの容量の限界が近づいてきました。
「歌詞(各国語)」についてはPart2で。
カヴァーはPart3で。


【 参考図書・サイト 】

今回も多くの書籍やサイトを参照・確認させていただきました。
その全てを挙げることは困難ですが、特に重要な書籍・サイトを一つずつお示しします。
本記事の大半はこの二つの情報源をベースとして記述されています。
この聖歌については様々な情報が氾濫しておりますが、この二つが必須情報源であり、重要且つ基本であると考え、強く推奨するものです。
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・ヴェルナー・トゥースヴァルトナー著/大塚仁子訳
 「きよしこの夜」物語 (05年アルファベータ)
 この記事で引用した書状等は同書・同訳に負っております。

Stille Nacht Gesellshaft (英語・独語)
 オーストリアの「きよしこの夜」協会(NPO)のHP。 
 (サイト名をクリックください)
 この聖歌に関する研究団体であらゆる角度から客観的科学的データ・資料を収集し提供しています。
 私も"Press"登録しており、おかげで貴重な画像を数点、本頁にUp出来ました。


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by Eiji-Yokota | 2008-12-24 09:14 | SONG | Comments(2)
Commented by kazz! at 2009-12-07 22:41 x
初めて聞きました。僕はこういう話大好きです。また何かおもしろいのがあったら、ぜひ教えていただきたいです。
Commented by Eiji-Yokota at 2009-12-07 23:25
kazz! さん、こんにちは。
Naomi's Choice へようこそ。
コメント、ありがとうございます。
地味なくせに妙なこだわりをもっているブログですが、ボチボチやっています。気が向いたら是非また、遊びに来てください。
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