Naomi's Choice 小柳有美の歌った歌
by Eiji-Yokota
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正調博多節 改訂版 Part 1

【 最初に 】
今年の2月に有美さんの「正調博多節」を聴き、感激して一気に同曲に関する記事を書きました。
当時、福岡・博多を離れていることもあり、手持ちの資料も限られ、ネットや近くの図書館の文献を利用しました。こうして書き上げた記事に対するアクセスは幸い、そこそこ頂きました。しかし、その後福岡に戻った際に改めて気になっている文献等に目を通したり、各地の図書館の蔵書を調べていくうちに、色々な「発見」や「疑問」が生じました。

そこで、前回の記事に大幅な加筆を実施することにしました。
但し、時間的体力的能力的限界もあり、前回の記事を全て削除して新しい記事を書き直すのではなく、前の記事も活かしながら、部分的段階的に新しい「記事」を書くこととし、最終的に、これらが完成した時点で前の記事を削除することとします。したがって、一時的に一部重複する二つの「記事」が併存しますが、事情ご賢察に上、ご容赦願います。

さて、その第1弾が、この歌の歌い出しの歌詞とその節回しに関する考察です。

*******************************
- trad (伝承歌) -
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福岡・博多の民謡、と言うより「お座敷唄」。
歌詞は甚句(7775)形式。

なお、福岡や博多に直接馴染みのない方の為に説明させていただきますが、この記事では、「博多」と言う言葉は、現在の福岡市博多区とほぼ同範囲の地域を指すと同時に、「城下町である福岡」に「対抗する存在」としての「豊臣秀吉再興以来の商人・町人の町である博多」と言う意味が含まれています。

では、まず、正調博多節の次の有名な歌詞(唄い出し)に焦点を中てて、この歌が辿った長い道のりを紐解いていきましょう。

    博多帯締め 筑前絞り 歩む姿が柳腰



1.博多帯、江戸で人気を博す
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博多織の起源は鎌倉時代に遡りますが、筑前藩主黒田長政が徳川幕府に毎年献上したことから、以後最上のものは「献上博多」と呼ばれ、有名になりました。

絵柄は予め織物設計段階で決められ、糸は先に染められます。
細い経糸(たていと)を多く用い、太い緯糸(よこいと)を筬(おさ)で強く打ち込み、経糸を浮かせて柄を織り出します。締め心地が良く、締める際に「きゅっきゅっ」と絹鳴りするのが特徴です。
(残念ながら、この頁は伝統工芸を紹介するものではありませんので、博多織と帯の紹介はこのくらいにして、興味のある方は右上記写真が掲載されている全国伝統的工芸センターのHPか「博多織Official Web」まで直接どうぞ)

以下、岡部定一郎氏の「正調博多節」物語(「博多のうたⅡ」08年12月 収録)によれば---
文化11(1814)年頃 博多掛町の商人山崎藤兵衛は博多織の拡販を狙い江戸に進出。彼は博多織のPRの為に当世人気の歌舞伎の劇中で博多帯を締めてもらい「博多織は良い」と言ってもらうと言うアイデアを思いつきます。伝を頼って黒田藩御家中掛りの古森敬吉を紹介してもらい、相談。それなら古森の知人の油屋次郎吉が昵懇にしている七世市川団十郎(成田屋)とその当たり芸の「助六」がよかろうと、二人は団十郎とも親しい歌舞伎作者の鶴屋南北(四世)に頼み込むことにしました。
南北はこれを快諾したばかりか、更に、博多帯に因んだ芝居の下座囃子まで新たに作ったのです。その歌詞こそが「博多帯締め 筑前絞り 歩む姿が柳腰」でした。

この記述が正しいとすれば、この歌の歌い出しの歌詞のオリジナル作者は、かの鶴屋南北ということになります!今で言うCMソングのはしりのようなものですね。
c0163399_19303410.jpg

「助六」は歌舞伎でも人気の高い演目で、七世団十郎の以前にも以後にも歴代の役者・スタッフ達が様々なヴァージョンの「助六」を作り出しています。(注1)
残念ながら、現在の「助六」では囃子の部分も含め、「博多帯」の部分は継承されていないようですが、「幻の囃子」を含め、この辺りの事情の詳細をご存知の方がいらっしゃれば、是非、ご教示いただければと思います。

さて、いずれにせよ、博多帯の人気は関係者の思惑通り、当時の角力甚句に「姉も締めてる妹も締めてる男肌えの博多帯」と唄われるまでになったようです。

2.博多節・正調博多節の誕生  通説的解説

この歌に関する少し詳しい解説を紐解くと、概ね次のように記述されています。(注2)

①博多節の原型は島根県石見地方、今の江津(ごうつ)市周辺で生まれた。
  後の「ドッコイショ」「今晩はの博多節」と呼ばれる「博多節」と区分する為、
  今日では便宜的にこの歌を「石見博多節」と呼んでいる。
  この歌は門付け芸人等によって本元の博多にも伝わり、やがて全国的に普及した。
②明治20年頃、「ドッコイショ」「今晩はの博多節」とも呼ばれた「博多節」が
  全国的に流行した。
  しかし、当の博多の花柳界や旦那衆は、歌詞や囃子言葉を品のないものと見做し、
  また門付け芸人が歌ったことから「乞食節」と呼んで蔑み、受け容れなかった。
③第1次世界大戦後の好景気の反動で深刻な不況が全国を襲い、博多の花柳界も
  その例にもれず、芸者の廃業が相次いだ。そこで人気回復策として、
  当時の「新民謡運動」(注3)に便乗し、新しい博多節を作る機運が盛り上がった。
④歌詞は従来の「博多節」のものを7/7/7/5形式にシンプルに短縮。
  旋律は「水券のお秀」(注4)が下関時代に覚えた端唄の「天狗さま」(注5)の
  それを採用。
 タイトルは「福岡日日新聞社」社長の三隅雲禱が「正調博多節」と命名。
⑤大正10or11年、新たな歌詞を新聞広告で募集。
  6月11日博多の川丈座の「正調博多節試演会」で新歌詞公表。
  この時、博多の当時の四券番の歌自慢が出演、歌唱。お秀の巧さは他を圧倒。
  レコーディングも果たし、「正調博多節のお秀か、お秀の正調博多節か」と称された。

しかし、上記に接した私はいくつか素朴な疑問を禁じえませんでした。
①の「石見博多節」について、舟歌から発展したとの説明が付されることが多いのですが、現在伝わっているものは、全くそれらしくなく、そもそも、どうして江津で「博多」節が生まれたのか疑問です。
また、後述するように、それ以前にも「博多帯締め、筑前絞り」の歌詞は他でも見受けられており、これらとの関連も気になるところです。
③で言う「新民謡運動」の隆盛期はもう少し後(大正後期)であり、「不況」等の背景説明と併せ、新しい歌誕生についての、いかにも(とってつけた)類型的な説明・解釈のように思えてならない。
④から言えることは「正調博多節」は自然発生的に生まれたものではなく、意図的に関係者によって生み出されたものと言うこと。
しかし、お秀は、大阪出身の、言わば「よそ者」であり、その彼女が歌う「下関」の旋律を何故敢えて博多の歌に採用・借りようとしたのか?
常識で考えれば、『博多地元プロジェクト』として、他地域の借り物でなく博多のオリジナリティに拘るのが普通ではないか?
また、三隅雲濤については後述しますが、そもそも彼は「博多毎日新聞」の社主であり、上記記述は間違い。
なお、⑤の試演会の年次の記載も文献により様々ですが、大正10年6月が正当。
これは福岡県立図書館所蔵する当時の福岡日日新聞のマイクロフィルムで私自身確認しているので間違いありません。
(同紙には「みもの ききもの」と言う劇場毎の公演内容告知欄があり、それにより確認。
しかし、肝心の歌詞の募集広告は現時点ではまだ確認できていません)

3.様々な「博多節」と関係者

その後、調べてみると、色々な見解があること、何よりも「博多節」の原型らしきもの、これに関与した人物の記録も複数見つかりました。

明治5年(異説あり) 「実(げに)おもしろや節」が流行し、その一節次のようなものがありました。

  博多帯締め 筑前絞り 
  歩む姿が 柳腰
  世の中陽気でいかしゃんせ 実(げに)面白や

これは幕末の嘉永安政(1848-59年)に流行したと言われる「世の中おもしろ節」を受け継いでいるとも言われていますが、その旋律等は定かではありません。また、逆に石見の舟歌が「世の中おもしろ節」になったと言う説まであり、時代についても別説があり、また、博多では上記歌詞で歌われたが、他地区では別の歌詞だったと言う説も…

では、「石見博多節」の代表的歌詞を。([ ]内は囃子言葉)

  博多[ハーオイデマシタカネ]帯しゅめ 筑前絞り
  それに毛襦子(けじゅす)の前掛けで 歩み姿は 
  柳[エーイエーエー ドッコイショ]腰
  [お月さんが チョイと出て 松の蔭]


次に「ドッコイショ」(「博多節」)の代表的歌詞

  博多帯締め 筑前絞り 
  筑前博多の帯を締めて歩む姿は
  柳[アリャ ドッコイショ]腰
  [お月さんが チョイと出て 松のかげ ハイ 今晩は]

石見博多節は今日では殆ど歌われていませんし、博多節(ドッコイショ)も歌われてはいますが、ごく僅かです。幸い、「日本民謡大観」(日本放送協会)の「中国篇」(69年3月)「九州篇(北部)」(77年6月)にそれぞれについて現地で採取された歌詞や譜面が掲載され、90年代に刊行された復刻版には付属CDもあり、ある程度確認可能です。それらを見聴きする限り、ザックリ言えば、大差ないものと言えましょう。
前者の方がいかにも門付唄らしい囃子言葉があれこれ入っていますが、後者ではそれが幾分簡素化されています。

なお、石見博多節は長門、出雲、伯耆、因幡等山陰一帯で歌われており、上記中国篇にも、そのいくつかが採録されています。

また、石見博多節については、明治20年頃源氏節の太夫、岡本八重吉が中京から出雲に出てきて源氏節芝居をうち、余興で博多節をうたい、この地に流行らせたと言う記録もあります。

加えて、こんなエピソードがあります。

博多で博多人形師の修行をしていた五郎と言う男が、不都合があって石見の鉱山に逃げ込み、博多屋と言う料亭を出店。客から所望されて「ドッコイショ」と掛け囃子をつけた唄ったのが、(石見)「博多節」だと。

いずれにせよ、「博多」から生まれた歌ではなく、博多帯が歌われている、博多屋で歌われた歌と言う位置づけです。


4.「正調博多節」と「天狗さま」 その関係者

先の「日本民謡大観」は町田佳聲(嘉章)氏を中心とした労作で、後の民謡研究に大きな影響を与えているようです。この中で、お秀と「天狗さま」についても言及されており、彼女が昭和35年頃歌った「天狗さま」と「正調博多節」の両方の旋律を比較掲示していますが、前者がややシンプルな程度で、やはり大差ありません。
また、同じ記事中に、博多で「天狗さま」を歌ったのはお秀が最初でない、と二組の人物を紹介しています。
明治20年頃、博多の簀子町にいた三浦四郎・雪夫婦
明治28~9年 相生券番の延玉(円玉、猿玉とも)。彼女は盲人で清元(注6)の師匠であったようです。(清元延寿太夫の弟子)

ところが、岡部定一郎氏の「正調博多節」物語(「博多のうたⅡ」08年12月 収録)によれば、二組の位置づけは微妙に異なります。

三浦夫妻は下関の稲荷町で売薬店を開き、雪はその傍ら、三味線の師匠として「本場博多節」を唄っており、それが今日の「ドッコイショ」の原型で、門付けによって全国に広がった、と。
岡部説と町田説では、歌った場所も歌までも異なります。

また、岡部説では、延玉は「ドッコイショ」に清元の気品のある節回しを付けたとあります。

これとは別に「正調博多節試演会」を開催した川丈座(旅館兼劇場)のオーナー、長尾丈七(寅吉)の息女がこんな発言をしています。

「はい、正調博多節をつくりましたのが、二代目長尾丈七でございます。昔の博多節は品のなか。ばってん、博多節は残さないかんと、大正8年、新聞社が歌詞を募集し、9年に四検番総出で発表会をしました。曲付けは父が清元(きよもと)の太夫(たいゆ)でしたので、 他の二、三人の方と話し合ってつくりました。」(注7)


5.「博多節」「正調博多節」「天狗さま」についての個人的整理

調べれば調べる程、様々な説、証言、見解が対立・矛盾し、真相が見えなくなる一方です。
しかし、これらの諸説を通して、逆にぼんやりとではありますが、見えるものもあります。

大正7~8年の頃「正調博多節」の命名者が三隅雲禱(注8)であることは今日略確定しています。
良く言えば「気負いに満ちた」、悪く言えば「従来の博多節を見下した鼻持ちならぬ」命名です。
それはともかく、この時期が正しければ、大正半ばまでには既に「正調博多節」の原型は(追加募集する歌詞を除き)成立していたことになります。
明らかに新民謡運動より早く、好景気の最中、不況に転じるか否かの時期となります。


「正調博多節」の節回し(旋律)は「北の江差追分、西の正調博多節」と言われる程、たしかに技巧的で難しいものです。
歌詞にも歌われていますが、単純に転勤族の多い福岡・博多の土地柄と言うことに加え、この歌をマスターしようと思って練習し、やっと歌えるようになった頃には、また、転勤命令が下る、と言う具合で「転勤節」とも呼ばれているのも故なきことではありません。
その旋律は「ドッコイショ」とはたしかに別物と言えば、そうかも知れません。
そして、「清元」の影響を感じさせる端正且つ繊細な節回しであるとの指摘も、確かに首肯出来るものです。
一方、それらをただの「影響」と言う観点で各説を捉えるなら、上の延玉の貢献も長尾丈七の関与も、それぞれなんら矛盾することなく、この曲の成立についての説明が可能になります。
つまり、それらは「作曲」でなく、各人の(部分的)「編曲」に過ぎないと理解すればよいのではないでしょうか。

採譜された「天狗さま」も、そのエロチックな歌詞に似合わず、(「正調博多節」と殆ど同じような節回しなので、当然と言えば当然ですが)高尚な節回しです。
ただ、お秀が正調博多節を次第に技巧的に歌うようになったのと同様、「天狗さま」もオリジナルの形からお秀節とも言うべきものに変容し、研究者が調査した時点では、結果として両者の区別がつきにくくなっていた可能性もあります。

さて、ここで私は一つの仮説に思い至ります。

「正調博多節」は「天狗さま」から節回しを借用したのではなく、三浦夫妻または延玉が歌った節回に、下関でエロチックな歌詞を付けて歌われたものが「天狗さま」になり、同じ旋律で博多で「博多帯締め云々」と歌ったものが「正調博多節」と呼ばれるようになったのではないか?
つまり(どちらで先に生まれたか、どこで生まれたかは別として)、両者のルーツは同じもの。一つの共通の旋律から相互に発展していったのではないか?
だからこそ、当時の「正調博多節」の関係者は、明治後期から既に博多の一部で歌われていた、この節回しを「他地区の歌の借用」に抵抗なく採用したのではないか。
お秀はたまたま持前の美声と下関時代にこの節回しに親しんでいた一日の長もあり、結果として(実力で)この歌の第一人者と目されるようになっただけなのではないか?
と。

もともとこの歌詞が歌舞伎の中の囃子言葉から生まれたものとする前述の仮説からすれば、歌舞伎と繋がりの深い清元節を歌う延玉が(それを知っていたか否かは別として)無意識の内にも当初のものに近い節回しに、ひょっとすると辿り着いているのかも知れないと夢想したくもなります。(今や誰も検証不能ですが)
「正調博多節」の唄い出しの歌詞が、(「仮説」が正しいなら)南北が100年以上前に作った囃子言葉と全く同じものに(結果として)戻っていることに、もっと注目しても良いのではないでしょうか。
そして、たまたま「博多」のタイトルを持つ中国地方で独自に門付唄として発展した「ドッコイショ」が先に全国区となったことに対抗しようと、博多にある別の節回しの「博多節」を「復興」「普及」させようとしたとは考えられないでしょうか。
換言すれば、不況だから、新民謡運動だからと言うことではなく、純粋に、地元に伝わるオリジナルな「博多節」をPRしたかったのかも知れないと私は考えています。
もしそうであれば、「正調博多節」の命名は決して他を見下したものでなく、実に本質をついていたことになります。

以上の観点に立つなら、更に一歩進めて、各種の「博多節」の存在も「助六」から端を発し、時代を経て各人が少しづつアレンジを加え、独自なものになったと概観出来ます。
その一つが放浪芸の中で発展を遂げ、「ドッコイショ」の形に集約され、また別の一つがより技巧的且つ洗練され、「正調博多節」として完成を見た、と捉えることが出来ます。
つまり、二つの博多節のルーツは元々同じでそれが転々と姿を変えていっただけではないでしょうか。
したがって、どちらも100%「自然発生的な唄」とは言えません。
しかし、多分に商業主義的な発生経緯を持つとは言うものの(単純比較自体が無謀とは言え)、このブログでもお馴染みのボサノヴァの誕生と比べれば、「特定個人による人為的要素」より「集団形成的要素」が勝っているとは言えるでしょう。


さて、今回はここまで。
次回は、「正調博多節」誕生前後の博多の花柳界の様子とお秀の生涯、新しく作られた歌詞等をご紹介する予定です。
なお、それまでは「従来の記事」もよろしくお願いします。→ここをクリック
また、上記鶴屋南北のCMソング説の源流を探索する「番外編」も是非、どうぞ
「番外編」(ここをクリック)


注1)助六
歌舞伎の人気演目の一つ。
1713年 二世市川団十郎により「花館愛護櫻」として演じられて以来、成田屋(市川家)のお家芸となった。
当初は台本らしい台本も存在せず、上演の都度改編され、作者名も色々あげられています。
江戸市民の好む曽我兄弟ものの一つ。本筋の仇討自体ではなく、その前段とも言うべき、兄弟の義父曽我祐信が紛失の咎めを受けている源氏由来の宝刀「友切丸」に纏わるストーリー。
舞台は来る五月の富士の牧(巻)狩りで曽我兄弟が実父河津三郎の仇工藤祐経を討ち果たす直前の三月の吉原。吉原に通う花川戸助六が曽我五郎だったと言う荒唐無稽な設定で、義父の危機を救い、併せてその刀で仇をとろうとする助六が友切丸を手に入れるまでを様々な人物が絡み合い進行する。
文化8(1811)年2月 七世団十郎が演じた際に、浄瑠璃の名題に因みタイトルを「助六所縁江戸櫻(すけろくゆかりのえどざくら)」(今日では「所縁」を「由縁」と表記)とします。
本文の錦絵は、歌川國貞による天保3(1832)年4月江戸市村座の公演時のもの。
中央が七世団十郎、左が五世岩井半四郎(揚巻)、右が五世松本幸四郎(意休)
この舞台は七世の息子(数えの10歳)の八世団十郎襲名披露公演でもありました。今日の「助六」の骨格はこの時に固まったと言われています。
七世団十郎は自らが五世海老蔵となり、そのまま助六を演じました。
また、この機会に七世は「歌舞伎狂言組十八番」(歌舞伎十八番)を選定し、歌舞伎宗家としての成田屋の権威復権を狙ったと言われています。

本文のエピソードが正しければ、博多帯誕生のきっかけとなった「助六」は年代的にはこの二つの舞台の間に位置する筈なのですが…

因みに私が確認した活字による「助六」は二種。c0163399_855362.jpg
・岩波書店「助六所縁江戸桜 (岩波文庫)」 (底本:文化8(1811)年2月江戸市村座上演時のもの)
・白水社「助六由縁江戸桜 寿曽我対面 (歌舞伎オン・ステージ (17))」 (底本:明治15・16年版「歌舞伎一八番」収録のもの)
前者は年代的に本文のエピソード以前に当たり、当然、「博多帯」は出てきません。後者(右画像)は時代が一気に明治に飛び、ほぼ現在の形と言えますが、やはり「博多帯」は出てきません。
果たして、この間に「博多帯」が出てくる版があるかどうか、です。


注2) 通説記載
例えば
民謡新辞典 畠山兼人 編  明治書院  79年
日本民謡辞典  仲井 幸二郎 他編  東京堂出版  72年

注3)新民謡運動
大正末期から始まった文化運動。
詩人や作曲家によって始められたが、やがて地方自治体や企業とのタイアップもみられた。
もともとの各地の伝承歌を学んだ上で新しくその土地にふさわしい歌を残そうとしたもの。
中山晋平、野口雨情、北原白秋、西條八十などが数多くの名作を残した。
晋平・雨情コンビによる新民謡の第1作は大正10年の「船頭小唄」で、これは、のちの演歌にも重大な影響を及ぼした。新平・八十のコンビによる「東京音頭」(昭和4年・8年)は有名。

注4) 水券のお秀
本名 藤井キエ  1880年(2月説あり)~? 大阪生まれ。
18歳の時、下関の「つたや」の芸妓となる。結婚したが、25歳で死別。大阪に帰る。
27歳の時、博多へ。
当時博多には「券番」(通常は「検番」と表記。「券番」表記は博多のみ)=芸妓の所属事務所のようなもの=が、4つありましたが、彼女は出来たばかり(1901年設立)で、一番威勢の良い「水茶屋券番」略称「水検(券)」に属していました。
この水茶屋券番を巡るエピソードを後に郷土の作家、火野葦平が小説「馬賊芸者」として発表しています。
いずれにせよ、彼女が世間に注目されるのは40歳過ぎて、この歌を歌ってからです。
美声の持ち主で彼女の歌う正調博多節は一世を風靡しました。
彼女の生涯や当時の博多の券番については後日詳細を記載します。

注5) 天狗さま
山口県下関市周辺で歌われていた端歌(*)。
「鼻と鼻とがお邪魔になって口も吸えない天狗さま」
元歌は
「風が邪魔してつがいの蝶々 しばし菜の葉の裏に住む」
と言われています。
日本民謡大観の中国篇と九州篇(北部)に採譜が掲載されています。

(*) 端歌  はうた
近世俗曲の一種。幕末頃流行った。三味線の伴奏で歌われる短い歌。
端正な長唄・浄瑠璃、洒脱な小唄、大衆の生活の中で生まれた民謡と異なり、卑俗で賑やかさを特徴とする。

注6) 清元 きよもと
三味線音楽の一つ。浄瑠璃の一種。主として歌舞伎の伴奏として発達。
叙情的で艶っぽさの上に、長唄の影響を受け、のびやかで瀟洒な節回しが加わり、江戸情緒の精髄として広く愛された。

注7) 長尾丈七の息女の証言
西日本シティ銀行のHPより。同行の前身の一つである福岡シティ銀行時代にHPに掲示した「ふるさと歴史シリーズ」の中で、現在の川丈旅館(当時、川丈座)の長尾とりさん(本文の2代目長尾丈七の息女)の「証言」が掲載されています。
同行の該当URLは下記。
http://www.ncbank.co.jp/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/049/03.html
なお、川丈旅館については、与謝野鉄幹、北原白秋等による紀行文「五足の靴 (岩波文庫)(2007年 岩波書店)」にも、次のような記載があります。
「中島の川丈(かわたけ)という旅館に泊まった。旅館と、温泉宿と、寄席と、氷店と、水上花火を装置した納涼店とを兼ねた家だ。川に臨んだ二階の戸を明け放したままで寝かせてくれた。」
1907(明治40)年7月31日のことでした。
「五足の靴」についての詳細は「おてもやん」Part1 を参照ください。

注8) 三隅雲禱 みすみ うんとう
本名忠雄(ただお)。福岡日日新聞(現在の西日本新聞の前身の一つ)の経済部長を経て、独立。
大正3年9月1日 博多毎日新聞発刊。紙面が薄桃色の為「赤新聞」と呼ばれた。内容的にも桃色がかったものを主体とした。現在のタブロイド紙のようなものと思われる。
この為度々トラブルが起こった模様。更に風水害で本社が被災したこともあり、大正11年末で廃刊。
その後、雲禱は家族を伴いブラジルへ渡ったと伝えられる。
本文で記載した正調博多節の新しい歌詞の募集広告は同紙で行われたとの記述もありますが、残念ながら、私は博多毎日新聞については、現物、マイクロ等一切確認出来ていません。 
(福岡県立図書館、福岡市立図書館にも所蔵なし)
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by Eiji-Yokota | 2009-09-14 00:01 | SONG | Comments(0)
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