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Naomi's Choice 小柳有美の歌った歌
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ふるさとの

 - 1907年 三木露風 + 1908年 斉藤佳三 -
ふるさとの_c0163399_001153.gif

ふるさとの
      小野の木立に
             笛の音の   
                 うるむ月夜や。
少女子(おとめご)は
        熱きこゝろに
                そをば聞き
                  涙ながしき。
十年(ととせ)経ぬ、
         おなじ心に
            君泣くや
              母となりても。 

三木露風(1889 - 1964)の代表作の一つです。
中央詩壇に、その名を知らしめた詩集『廢園』(光華書房、1909年=明治42年9月5日発行)に「廿歳までの抒情詩」28篇の内の一篇として収録。この詩のあとに「明治四十年十月」と付記されています。
元々、この作品は雑誌「文庫」第35巻第6号(1907年=明治40年12月15日)に「冬夜集」の一篇として発表されたもので、露風、18歳の作です。

複数の音楽家(お馴染みの近衛秀麿、山田耕筰始め、石桁 真札生、宮原禎次、戸田邦雄、戸田盛忠他)により曲が付けられましたが、現在定着しているものは何と言っても斎藤佳三(1887-1955)によるものでしょう。

斎藤佳三については、今や「知る人ぞ知る」存在となっているのが現状かと思われますが、大正から昭和初期(戦前)にかけて作曲やデザイナーとしてマルチな活動をした人物で、「デザインの父」と呼ばれることもあります。

ここでは、若き日の三木露風と、現在では殆ど忘れられかけた稀代の才人、斎藤佳三の生涯及び大正時代の芸術家同士の交流をみて行きたいと思います。
(冒頭画像は、露風の直筆原稿を色紙に写したもの。 財団法人 露城館・矢野勘治記念館 所収、同色紙の販売も行っています)




【 三木露風の生い立ち~若き日 】

ふるさとの_c0163399_0274432.jpg三木露風については後日「赤とんぼ」の記事の中でも詳しく触れる予定ですが、ここでは生い立ちから若き日までの歩みを年表形式で見て来ましょう。

右画像は「作家の自伝 (62) (シリーズ・人間図書館)」 (日本図書センター 1998年)
詩集「白き手の猟人」および自伝「我が歩める道」(1928年)などからの抜粋版。

1889(明治22)年 6月23日、兵庫県揖西郡龍野町八番屋敷[現・たつの市上霞城(かみかじょう)101番地]にて出生。本名、操(みさお)。
父、節次郎(22歳)は地元の名士三木家の二男で当時は祖父の経営する九十四銀行に勤務、漢詩を作り書を好んだ。母、カタ(15歳)は鳥取池田藩の家老・和田邦之助の二女で、父が藩の内乱で追放された際、重臣の堀正の養女となり、三木家に嫁ぎました。(前年4月28日)

1895(明治28)年:露風 5歳
父の放蕩が原因で、母は弟の勉(つとむ)を連れて鳥取の実家へ戻る。
(翌年、両親は正式離婚。母は弟と上京するが、弟はしばらくして龍野に帰される)

露風は家父長でもある祖父の制(すさむ)のいる本家に引き取られ大家族の中で養育されます。
もともと放蕩息子を立ち直らせようとカタを節次郎の嫁に望んだのも、にも拘わらず一向に改善されぬまま、夫の帰りをひたすら待つ日々を送るカタを不憫に思い、離婚を勧めたのも、いずれも制であると言われています。

三木家は龍野藩で頭角を顕した一族で、制は寺社奉行、初代龍野町長、九十四銀行(現在の三井住友銀行の前身の一つ)頭取を歴任。
漢学の造詣が深く、露風は六歳から漢学を覚え神童と呼ばれました。
いずれにせよ、幼くして母と別れたことで露風は生涯母を恋うる気持ちが強く、幼児期のこの体験がその作風に決定的な影響を与えたと言われています。
なお、父は離婚後しばらく神戸にいましたが、再婚して龍野に一時戻ります。やがて離婚。再び神戸へ行き、3度目の結婚をし、生涯神戸で過ごします。

1901(明治34)年:12歳
龍野高等小学校の新任教師松本南楼の感化を受けて句作開始。
1903(明治36)年:14歳
県立龍野中学校(現・県立龍野高等学校)に首席で入学。
1904(明治37)年:15歳
11月に岡山県の私立中学閑谷黌(しずたにこう)に転学。
1905(明治38)年 :16歳
7月、僅か八ヶ月で閑谷黌を退学、処女詩集「夏姫」自費出版。
8月、上京。
1906(明治39)年:17歳
父の勧めにより編入学した商業学校を勝手に退学し、その勘気に触れ、送金を失う。
1907(明治40)年:18歳
5月、早稲田大学高等予科文学科へ入学。9月、退学。
生田長江の励ましもあり、この頃から詩作に注力、詩人として評価を得るようになります。
この頃「ふるさとの」が書かれる。12月「文庫」掲載。
北原白秋等との親交が始まる。
1908(明治41)年:19歳
3月、早稲田大学高等予科文科再入学。(翌年、無届欠席、学費未納で除名)
1909(明治42)年:21歳
9月「廃園」出版。
中央詩壇で高い評価を得て、この3月に「邪宗門」を発表した北原白秋と並び「白露時代」と称される。
1910(明治43)年、慶應義塾大学本科に転入学。(授業料未納で翌年除籍)
1913(大正2)年、9月「白き手の狩人」出版。象徴詩の頂点とも評されています。
冬、未来社結成。
川路柳虹(かわじりゅうこう)、西條八十、服部嘉香、柳沢健、山田耕筰等が参加。
1914(大正3)年、1月 栗山仲と結婚。2月 季刊「未来」発行。未来社主催でドイツより帰朝した山田耕筰音楽晩餐会開催。
1917(大正6)年、萩原朔太郎「三木露風一派の詩を放追せよ」を「文章世界」に執筆。
1920(大正9)年、カトリック信仰に関心を持ち、北海道のトラピスト修道院へ講師として赴任。(後、受洗)

詩人、童謡作家として知られる露風の前半生をざっと見てきましたが、その交遊範囲は「ちんちん千鳥」の記事でも言及した北原白秋始め「赤い鳥」人脈とも交錯します。
(そもそも「赤い鳥」の選者として鈴木三重吉に白秋を推奨したのは露風だと言われています。但し異説あり)
なお、後半生については「赤とんぼ」の記事で触れます。

本作品はまさに、露風の初期、文壇デビューを飾る作品の一つと位置づけられます。
そして、その背景には激しくも短期間で終わった悲恋の存在がありました。

【 作品の背景  「ふるさと」の場所とモデル 】

この詩で歌われた「ふるさと」は、彼が生まれ育った現「たつの市」と一般的には解されています。
いくつかの彼に関する評伝でも「小野の木立は聚遠亭(しゅうえんてい)をとりまく杉木立である」(和田典子「三木露風―赤とんぼの情景」)等の記述が散見されます。
事実、たつの市の龍野公園聚遠亭心字池(しんじいけ)畔には、この詩碑(昭和15年建立)があり、除幕式には露風夫妻も出席しています。(冒頭の直筆原本はこの詩碑の為に書かれたもの)

しかし、この作品の成り立ちを考えると、そうとばかりも言えないと考えられます。
まず、この作品の背景である悲恋はいつどこで起こったものでしょうか。
ふるさとの_c0163399_21432972.jpg
故家永長次郎教授は、友人知人の証言・歴史的事実、露風宛ての手紙等から想定される数人のモデル候補について綿密な考証を行い、この詩のモデルを岡山閑谷黌時代の露風の下宿先の近所に住んでいた4歳年上の太田小茂与(通称「茂与子」 )であると特定しています。
1968年に書かれた論文「『ふるさとの』成立考」は「若き日の三木露風 (近代文学研究叢刊)」(和泉書院 2000年)に収録。

この短くも激しかった恋愛は、しかし、父節次郎の反対で実ることはありませんでした。

当時の父親の権威は今とは比較にならない程強く絶対的なものでした。露風出生当時の節次郎の放蕩も地方の名士で絶対的な存在である制に対する消極的反発から出たものと理解することも可能でしょう。
結局、茂代子は露風と泣く泣く別れ、程なく周囲の勧めで、岡山市内の杉本家に嫁ぎます。夫の斎(いつき)は鉄道省勤務。その父は小学校の校長でした。二人の間に長男泰介が生まれたのは1907年1月のことです。
露風が閑谷を離れ上京してから2年近い年月が流れていました。
しかし、茂代子の結婚は決して幸せとは言えなかったようです。
一説には、茂代子のこの動静は当時東京にいた露風の耳にも入り、彼は岡山を訪れたとも言われていますが、確証はありません。

詳細は割愛しますが、この時期、露風は彼女との恋愛とその破局によって生まれたと思われる作品群を残しています。
茂代子に対する非難や恨み事かと思しき作品もないでもないのですが、本作品を最後に、露風からこの恋愛に関する詩は姿を消します。自身の中で彼女との件に折り合いをつけたのだと思われます。

ここで「ふるさと」の場所の議論に戻りましょう。
当然、二人が愛を育んだのは岡山の「備前国閑谷の草深い田舎」がその舞台となりますし、家永教授は、他の作品での「ふるさと」の語句の使用例からも、露風は「故郷」と言う意味でなく、「こころの憩いの場」として、この言葉を使っていると指摘しています。
謂わば「心のふるさと」と言う趣旨ですね。
あるいは、「ふるさと」を作者側に限定する必要もなく、結婚して実家を離れている茂代子にとっての生まれ育った「ふるさと」(家永教授によれば、彼女も結構転居しているようですが)と言う解釈も成り立つかも知れません。
なお、私は龍野も閑谷も訪れたことがないので、実際の風景までは確認出来ていません。

いずれにせよ、この詩の原風景を「たつの市」に限定する必然性も確証もありません。
そもそも、この詩はタイトルから想定される「望郷の想い」などではなく、聞こえてきた笛の音にかつての悲恋とその女(ひと)との思い出を重ねた、その心情を歌い上げたものです。

なお、詩の中にある「十年経ぬ」は、歴史的事実でなく、茂代子のこの間の苦労の大きさと理解する解釈もありますし、要は取り返せぬ程、時が流れたと解すれば良いのではないかと私は思っています。
(露風18歳の作品ですから、文字通り10年遡ると8歳。これでは大人の恋愛は無理ですね)

ある時、男勝りの気風の良い女友達に、この詩へコメントを求めたところ――
「私は泣かん。たとえ、ダンナと不仲であっても。おっかさんになったら泣いてなんかいられない」と。
全女性に聞いた訳ではありませんが、彼女のコメントに共感する女性は案外多いのではないでしょうか。
母と言う生き物は他の多くの生物においても、その種の保存の本能からか概してオスより強く逞しいものです。
人は時にセンチメンタリズムに襲われますが、重症なのは男の方かも知れません。

【 斎藤佳三の足跡 】
ふるさとの_c0163399_1532331.jpg斎藤佳三(かぞう 本名:佳蔵)は1887(明治20)年4月28日 秋田県由利郡矢島町(現「由利本荘市」)に生まれました。
共に現在の芸大(東京藝術大学)の前身である東京音楽学校師範科入学(1905年)後、東京美術学校図案科に再入学(1907年)した経歴が端的に示すように音楽、美術両分野で広範囲に活動しました。
具体的には、図案家、作曲家、舞台美術家(衣装・装置)、演出家、あるいはドイツ表現主義の紹介者として知られます。
図案家(デザイナー)としては、家具設計と室内装飾、楽譜やSPレコード・アルバムの装丁、流行歌の作詞・作曲、国民服はてはネクタイや浴衣のデザイン迄手がけています。

ふるさとの_c0163399_1525826.jpg右はヤマハの有名な音叉のマーク。
ヤマハの公式サイト等に明記されてはいませんが、このデザインの原型は当時ヤマハのデザイン主任であった斎藤が手掛けたものと言われています。

斎藤の基本スタンスは、総合芸術の視野を以って生活と美術をデザイン(図案・意匠)という領域で一つに結びつけることを終生の課題とし “生活芸術”を目指したものと言えます。

ふるさとの_c0163399_1542820.jpg遺族が寄贈した膨大なコレクションを整理して芸大が「斎藤佳三の軌跡」展を開催したのは2006年のことでした。
これにより、ようやく、我々はその全貌の一端を垣間見ることが出来るようになりました。
今回の記事もこの展覧会での研究成果によるところ大です。

関心のある方はこちらをクリック → 芸大コレクション展「斎藤佳三の軌跡-大正・昭和の総合芸術の試み-」






以下、彼の交遊関係に焦点を中てて、彼の軌跡を見ていきましょう。

斎藤が入学した音楽学校の1年先輩にいたのが、やがて生涯の友人となる山田耕筰(1886~1965)でした。
一方、彼は音楽学校で日本初の創作オペラ「羽衣」(小松耕輔作詞・作曲)に取り組み、自身も漁師伯良役で出演(1906年)しますが、舞台芸術そのものに興味を持ち、洋画家の岡田三郎助(1869 - 1939 妻は小山内薫の妹、八千代)の知己を得て、1907年、美術学校へ入学し直します。
芸大の資料によれば、斎藤が「ふるさとの」に曲を付けたのは1908年とあります。(異説あり)
1910年、山田耕筰に実業家・岩崎小弥太(三菱財閥の総帥)からの資金援助によるドイツ留学話が舞い込みます。
一面識もない岩崎からの申し出に、逡巡する山田に対し、斎藤は「そういうことに一富豪が金を出すということ自体、驚くべき社会的な進歩じゃないか」と諭して決断させます。
1912年、美校の卒業制作を早々と提出した斎藤は自身のベルリン王立工芸院で構成美学専攻の為、旅立ちます。時に佳三、25歳。
11月16日、日本郵船の伊豫丸が横浜港からドイツへ向けて出港。
伊豫丸は貨物船だったので乗客は3人の若者だけでした。
斎藤の他は伊藤道郎と石橋勝浪。
伊藤道郎 (1893 - 1961) は、後に世界的舞踏家、振付師となります。
父は建築家、伊藤為吉。演出家・俳優の千田是也は弟、ジェリー伊藤は次男。
彼は当初は声楽家を目指していましたが、ベルリンで斎藤から紹介された山田耕筰の助言もあり、ダンサーに転身します。
石橋勝浪は、パイロットを目指してパリへ向かい、仏空軍士官となります。ジオン・ド・ヌール勲章を授与され、1920年7月頃帰国。その後は民間飛行士として活動します。
12月28日、斎藤達はベルリンに到着。
山田は歓喜して斎藤を迎え、そのままシャルロッテンブルク区の下宿に同居させ、二人はほぼ一年にわたって行動を共にすることになります。

ふるさとの_c0163399_21262377.jpg彼はまづ私に詩を吹き込み、文学を教へ、絵画への眼を開けてくれた。彼との同室の生活は思考の生活となり、論談の生活となつた。
それまでの私は、ただひたむきに、語学の吸収と、音楽の摂取に沈潜してゐた一学生に過ぎなかつた。ただ『知』の世界を、無邪気に行進する若人 [わかうど] でしかなかつた。陽の光でのみ成長してゐたのである。彼によつて私には『夜』が齎された。生活の一切に反省が促され、闇の光も見えそめて来た。哲学 [フイロゾフイレン] する世界に呼吸する歓びを知る事ができるやうにもなつた。
言ひ換へれば、芸術家となる真の生活の第一歩を蹈み出したのである。

山田耕筰「自伝若き日の狂詩曲」 (講談社 1951年:復刻版 日本図書センター 1999年)より)

また、この後、小山内薫 (1881 - 1928) が欧州の演劇状況視察の為、ベルリンにも立ち寄ります。一時は3人で連れだって行動することもありました。
山田は小山内の影響から帰国後、舞踏への傾倒を深め、斎藤もこれに参加・支援します。

1913年11月22日、斎藤のまるでその後の実父の死を予感したかのような詩「曼荼羅の華」に感銘を受けた山田はこれを交響詩に仕上げます。
(前年作曲された日本最初の交響曲「かちどきと平和」と二部作として山田帰国後の1914年12月6日、東京帝国劇場における東京フィルハァモニィ協会の特別演奏会で自らの指揮で初演)

ふるさとの_c0163399_152521.jpg

ベルリンでは二人は当時ドイツで起こりつつあった一大芸術運動である表現主義の洗礼を真正面から受けることになります。表現主義はいわば、それまでの印象派のアンチテーゼとして起こり、既存の秩序への反発や反逆をテーマとするものが多く、ニーチェからの思想的影響も指摘されています。絵画では抽象絵画が勃興します。
斎藤の作品には絵画のワシリー・カンディンスキー(抽象絵画の祖)や建築のブルーノ・タウト(アルプス建築等で知られる。ナチスに追われ亡命、日本にも滞在)からの影響が見られます。
(上はタウトからの影響を主に彼の美術活動をまとめた長田謙一「斎藤佳三―ドイツ表現主義建築・夢の交錯 (INAX album (4))」(INAX出版 1992年) 表紙は、彼が制作したレコードジャケット。三角形の集積の頂点にいるのはベートーヴェン。楽曲はピアノ三重奏曲第7番、通称「大公トリオ」)
1914年、画廊主ヘルヴァルト・ヴァルデンから表現主義版画150点を借り受けた二人は、ドイツ・シュトゥルム分社主催「DER STURM」を開催。
(日本におけるドイツ表現派作品の初紹介、会場は当時の日比谷美術館)。
日本の美術界にも大きな影響を与えます。

こうして彼の総合芸術に向けての日本での八面六臂の活動が始まります。

*****

1955(昭和30)年11月17日、斎藤佳三は世田谷区の自宅で胃がんの為、亡くなります。68歳。
葬儀委員長を務めたのは生涯の友、山田耕筰でした。


【 「ふるさとの」の広がり 】

斎藤佳三による楽譜は私が確認した限りでは、1914(大正3)年、『新しき民謡』に初掲載されています。

ふるさとの_c0163399_23311647.jpg
1928(昭和3)年2月、藤原義江の歌でビクターから発売。
録音は1927年1月28日、米国、NY。ピアノはルロイ・シールド。
アメリカ・ビクトローラ原盤として作成されたものです。前年に藤原は米国でビクターのオーディションを受けており、晴れて「赤盤歌手」(当時ビクターの外国盤レコードは、赤いレーベルに金文字でVICTOR/VICTROLAと記してあったことに由来。海外一流アーティストを意味していた。レコード盤の価格も高かった)の仲間入りした訳です。
上画像は一世を風靡した大歌手藤原のオペラ歌曲以外の日本歌曲をCD2枚組に集約、聴きやすいようノイズレス処理した「ちんちん千鳥」を含め、この時代の日本の代表的歌謡39曲が収録されています。
ノイズレスSPアーカイヴズ 鉾をおさめて/藤原義江」(日本伝統文化振興財団 2009年)

まだ藤原が18歳の時、松井須磨子を見たことと、人を介して小山内薫ら新劇関係者に会ったことで演劇をやろうと思い立ち、新国劇に入団、戸山英二(後、英二郎)の芸名で俳優を目指したことは有名な話です。

その後、浅草オペラの大阪公演で、原信子、田谷力三のオペレッタを見て転身。1921年のロンドン・スタインウェイ・ホールでのコンサートが好評を博し、朝日新聞(原田譲二 後、編集局長)が「我等のテナー」と10日間の連載で大々的に報じてからの活躍はご存知のとおりです。
その魅力と特徴は音楽評論家、堀内敬三が命名した「藤原節」(堀内は「日本的な独自の匂いに西洋的なオペラの発声から来た技術を加えたもの」「西洋のオペラ的な発声に日本の清元の味を加味したもので、いわば混血的技巧を自由に駆使した藤原君の独特の節」と説明、藤原は自ら「洋風艶歌師のような歌」と要約)にありました。

1936(昭和11)年、この曲はNHKラジオで国民歌謡(戦後の「ラジオ歌謡」の前身)に採り上げられ、繰り返し放送され、全国的に普及します。以後、多くの歌手が採り上げています。

【 補足 近衛ヴァージョン 】
ふるさとの_c0163399_1871034.jpgロームが設立した財団による日本クラシックのSPレコードの復刻作業が進められていますが、その第4集に近衛秀麿作曲(1928)による本作品が収録されています。
ロームミュージックファンデーション SPレコード復刻CD集 第4集 日本語版 (日本音楽保存 2009年)
録音は1929年、歌唱のMargarete Netke-Loeve マルガレーテ・ネトケ=レーヴェはドイツのソプラノ歌手。1924年来日し、東京音楽学校でドイツ語の歌唱法を教授。彼女の日本語が聴ける貴重盤。
近衛の作品はリズム、テンポ、和声、旋律ともめまぐるしく変化する難曲です。

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by Eiji-yokota | 2010-12-18 18:58 | SONG
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